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学問分野としての歴史 マーガレット・メール『19世紀日本における歴史(学)と国家』#4(後半)


History and the State in Nineteenth-Century JapanHistory and the State in Nineteenth-Century Japan
(1998/03)
Margaret Mehl

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#1 日本における学問的伝統
#2 帝国大学における歴史学
#3 西洋式研究法の習得:ルートヴィヒ・リース
#4 歴史学におけるアカデミズム学派(前半)

#4 歴史学におけるアカデミズム学派(後半・終)

 第4回の後半です。のんびりと続けてきたまとめも今回が最終回です。

 前回は学問分野としての歴史学の中で主流を占めたアカデミズム学派の説明から入り、彼らの特徴として、
①自らの客観性を主張したこと
②資料の収集と本文批判(text critic=「考証」)の方法を用いた事実の確定を重視したこと
を指摘しました。西洋からの影響の実態を詳細に捉えつつも、アカデミズム学派の骨子は以前から歴史編纂機関に勤めていた漢学系の学者たちに負うところが大きいという著者の主張が繰りかえされています。後半では、アカデミズム学派とその外部の関係性について語られます。

 編纂機関の職員たちは、政府の機関から帝国大学内の一部局となってからも、資料の収集に力を注いでいました。その一方、文献資料にとどまらない形で過去の証拠を集める新しい試みが始まります。史学会が始めた「旧事諮問会」、つまり過去の出来事についての聞き取り会です。主な目的は、文献資料ではわからない事柄について、江戸時代の生き残りに聞き取りをすることでした。若い世代は江戸時代を体験しておらず、その上の世代にとっても江戸時代はもはや追憶の対照となりつつありました。江戸への関心の高まりは同時代的な流行でもありました。

 聞き取りの対象は多くが旧幕府の役人でした。一度だけ、大奥女中に聞き取りをしたこともあります。この企画は、現代におけるオーラルヒストリーのような、文字記録を残さない人々についての情報を集めることを目的としたものではありません。現存する記述資料を精査したうえで、その不足部分を補完するためのものでした。この試みもまた、事実を確定することを目的としていたのです。しかし同時に、この企画は好古趣味的色彩を強く持っていました。単体では大して重要とは思われないような事実が多く記録され、公刊された記録は何度も再版されて学者だけでなく、歴史の愛好家にも読まれました。そして歴史小説家や脚本家には格好の素材を提供したのです。

 資料の収集は海外にも及びました。日本関係海外資料の収集は、今もなお編纂機関の重要な活動の一つです。海外資料の収集はリースの提言によって始まりました。バチカン文書館、ライデン帝国文書館、デンハーグ文書館などで調査と資料の収集がおこなわれましたが、戦前においては大規模かつ組織だった収集には至りませんでした。文書の複製作業があまりにも大変だったのかもしれません。

 より多くの資料を集めようとする計画は、考証学の伝統を色濃く引き継いだものでした。新しい文書が利用可能になり、それが批判的な分析を受けたとき、その結果として生じたのはかつての歴史書の再評価――つまりその評価の下落――でした。史学雑誌には毎号「考証(本文批判)」と「解題(書誌解説)」の欄が設けられ、歴史書が紹介されました。当時も広く読まれていた軍記物の『太平記』などは、こういった資料の批判的検討によってその信憑性に大きな疑問が投げかけられることになりました。有名かつ人気のあった歴史上の英雄たちについて、その記述の虚偽・創作の部分が明らかにされていったわけです。大衆は学問としての歴史学とはこういうものであると思ったため、学問としての歴史学は世間の評判を大きく損なってしまいました。

 この経緯はアカデミズムの方法論が抱える問題点をあきらかにしました。考証学の方法論を使うと、既存の説の誤りを証明する方が、実存を証明するよりも遙かに簡単なのです。『太平記』は〔資料として〕歴史家の役に立たないのだ、という久米邦武の非難は、一次史料に書かれていないことは何も受け入れない、という過度に批判的な態度の表れでした。今日の歴史家は、久米よりは『太平記』の史料的価値を認めています。『太平記』に描かれているような混乱の時代には、そもそも多くの一次史料が失われてしまったと思われるからです。

 このような事実へのこだわりは、客観的であろうとするアカデミズムの主張の表れでした。しかし、客観的であろうとすることにこだわるあまり、彼らは重要な事柄をわかりにくくしてしまいました。つまり、資料と事実を選別し配列する際には、資料編者と執筆者の価値観が反映されるということです。アカデミズムは自認するほどに客観的でもなければ、近代の学者たちが言うほどイデオロギーと無関係でもありませんでした。重野安繹たちが、自分たちの振るまいが論争を巻き起こす可能性に思い至らなかったのだとしたら、それは、学問は国家と国民に奉仕すべきものであるという認識が当時広く一般に存在していたことに加え、重野たちが歴史研究と歴史叙述を十分に区別していなかったからでしょう。ランケ流の伝統を受け継いだドイツ歴史主義も、歴史叙述的表現の問題について考える際に、重野たちと同じ失敗をしました。彼らは、知識は史料そのものが語る内容から得られるという幻想にとらわれたのです。アカデミズムも歴史主義も、歴史がどのように表現されるかこそが、政治文化のなかで歴史がどのような機能を担うか、ということを決めるうえで決定的に重要であるということを見逃したのです。その結果、一見客観的だった歴史編纂事業は、結局のところ政治に役立つように濫用されてしまい、政治的価値観について検証することも議論することもなく、そのプロパガンダをおこなってしまったのです。政治的プロパガンダのために歴史が濫用されることにアカデミズムが抵抗できなかったのは、彼らが客観的であろうとしたり、思想そのものを持たなかったからではなく、研究と叙述を区別しなかったこと、また表現方法について深く考えなかったことが原因なのでしょう。

 こういったアカデミズムの問題は同時代にも認識されており、『早稲田文学』や民友社の山路愛山などからは、本文批判と実証にこだわりすぎている、といった類の批判を受けました。アカデミズム学派の中にも、個別の事実への執着が問題であることを理解している人もいました。久米邦武は筆禍事件ののち、事実の確定の重要性を改めて正当化しつつも、歴史学はそこで立ち止まってはいけないと述べました。時代遅れの道徳的な価値観から歴史解釈が自立し、前の世代の失敗を繰りかえさないようにすることで歴史学が人類社会の進歩に寄与することが、久米の理想でした。久米は日本史の研究だけが学問の自由を享受していないと言い立てて、本文批判の方法論が支配的になった理由を歴史研究への政治的圧力に帰しました。歴史家は議論の余地がない結果を得るために本文批判に没頭したというのです。しかし、そうすることによって後に彼らは困難に直面することになります(1910-11年の南北朝正閏論争)。

 また、重野や久米の同僚だった田中義成も、歴史書の政治的重要性を説きました。歴史的事実の発見は重要でしたが、その知識は活用されなければ無意味であり、無知な政治家は地図を持たない旅行者のようなものだったのです。田中は同僚に対しても、時事問題についての意見を表明することを勧めていました。

 学問の自由とその欠如は、この時代における論点の一つではありました。しかし、久米邦武筆禍事件の発生によって、歴史家は政治的抑圧から避難して実証研究に向かったのだ、という現代の歴史家の主張を聞くと、彼らはこの問題を過大評価しているように思われます。明治時代における政治的抑圧の度合いが1930年のそれに匹敵すると思うのは間違っています。皇室に関する話題はほとんど禁忌でしたけれども、歴史学に対する抑圧は政府によるものではありませんでした。のちに詳述する久米邦武筆禍事件もそうです。歴史学は政治的抑圧を感じる前から、既に事実の集積へと引きこもり始めていたのです。帝国大学の歴史家たちはなにがしかの政治的抑圧を実際に経験しましたが、アカデミズム学派の特徴をそういった外部的抑圧だけで説明することはできないのです。

 さて、まだ疑問が残っています。客観的で科学的基準に基づいた歴史研究が発展し、国家の後援を受けた機関で実証研究がなされた時代に、批判的研究でなく神話に基づいた歴史観が国家のプロパガンダによって広められるという光景がみられたのはなぜなのでしょうか。歴史家は、アカデミズム学派には政治のために歴史がゆがめられたことに対抗できるだけの思想と抽象的発想が欠けていたからだ、という説明をよくします。しかし、著者の説明は違います。アカデミズム学派における思想と「客観性」の欠如が原因なのではなく、むしろ歴史家と政治家が国家における歴史学の役割について認識を共有してこなかったこと、また研究と叙述の関係や歴史学と政治文化の関係についても深く考えてこなかったことが問題なのです。この問題は、いかなる偏見からも自由で決定的で完璧な歴史が究極的には実現可能なのだ、という〔編纂機関の学者たちの〕確信と密接に関連していました。重要性は失われていましたが〔歴史書編纂の試みがたびたび中断したように〕、「正史」という概念が明確に否定されたことはなかったのです。

 結局のところ、アカデミズム学派もその他のどの歴史学派も、政治的正当性を提供したり、ナショナルアイデンティティを強化したりする類の外部からの要求を充たすことはできませんでした。歴史学とこれらの外部的要求の間にあった緊張関係こそが衝突を引き起こし、結果的に「客観的」歴史学と神話的歴史学の間に溝を生じさせたのでした。


重野安繹と久米邦武―「正史」を夢みた歴史家 (日本史リブレット人)重野安繹と久米邦武―「正史」を夢みた歴史家 (日本史リブレット人)
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学問分野としての歴史 マーガレット・メール『19世紀日本における歴史(学)と国家』#4


History and the State in Nineteenth-Century JapanHistory and the State in Nineteenth-Century Japan
(1998/03)
Margaret Mehl

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#1 日本における学問的伝統
#2 帝国大学における歴史学
#3 西洋式研究法の習得:ルートヴィヒ・リース

#4 歴史学におけるアカデミズム学派(前半)

 第4回です。
 これまで、日本に学問分野としての歴史学が確立するための基礎を構築したいくつかのトピックについて言及してきました。一つめは日本における近世以来の学問的伝統を踏まえた歴史編纂機関の活動と、彼らの成し遂げた資料収集・資料編纂の営み。二つめは帝国大学に歴史学を専門的に学ぶための学科が設置され、さらに日本史が独立した専攻として認められたこと。そして三つめが、史学会(とその機関誌)の創設により、研究者間の幅広い交流が可能になったことでした。さらにこの三つを踏まえた上で、ドイツ人歴史家のルートヴィヒ・リースが果たした役割を概観しました。では、それらの上に成立した日本における学問としての歴史学とはどのようなものだったのでしょうか。

 著者はまず、「アカデミズム」の説明から入ります。「アカデミズム」が明治期以降、戦前の日本においてもっとも大きな影響力を発揮した学派であると著者は考えているからです。

 「アカデミズム」「官学アカデミズム」とは、一般に帝国大学で最初に実践された学問を意味します。帝国大学は国家の要請にこたえるための官僚と研究者を養成する機関として設置されました。帝国大学はヨーロッパや北アメリカの新設大学と同じくプロイセンの大学を模範にしていましたが、日本に元来あった官立学校の伝統によって、一層強く国家の干渉を受けることになりました。その干渉は自然科学や技術学科など、特に実践的であるとみなされた学問において顕著でした。

 アカデミズムは歴史学が独立した学問分野となった時にはその主流を占めていました。近年の研究はアカデミズムと、その同時代における他の重要な学派(啓蒙主義学派など)の相違点や、アカデミズムの客観性、科学的性格を強調しがちです。しかし、それらの間には重要な類似点がありましたし、アカデミズムを客観的なものとして特徴付けるのは問題があるでしょう。歴史叙述は理性的で進歩的であるべきだとか、社会は分析の主要単位であるといった考え方をアカデミズムと啓蒙史観は共有していましたし、どちらも〔歴史の?〕漸進的な変化を強調していました。啓蒙史観は主張の基礎を普遍的法則〔universal laws〕の探求に置き、アカデミズムは歴史的事実の確定という厳密な方法論的規範に置いていましたが、科学的たれ、という主張は両者に共通した特徴でした。アカデミズム学派の歴史家たちが公的な学習機関に所属していたせいで、アカデミズムは客観的だ、という印象が広まったようです。

 史学科と国史科の設置は歴史学が学問分野として成立するために必要な条件の一つでした。この二つの学科は近代の歴史研究が発展させてきた三つの知的伝統を受け継いでいました。国学・漢学・西洋歴史学です。国学と漢学は古典講習科、編纂掛、国史科の学者たちがにないました。特に編纂所の所員たちは、国学と漢学両方の伝統であった、本文批判の方法論としての考証学〔the methods of textual criticism〕を洗練させていました。西洋歴史学とドイツ的方法論はリースと坪井久馬三によって伝授されました。国学・漢学・西洋歴史学は当初並立しており、その代表者たちはしばしば対立していましたが、共通点も多く、アカデミズムの発展には同じように寄与したのです。

 アカデミズムは一次資料*の収集と事実の確定を強調しました。アカデミズムは方法論の重要性を説き、「客観的」であること、つまり政治的、道徳的偏りから自由であるべきだと説きました。『史学雑誌』に掲載された初期の記事にはこれらの特徴がよくあらわれています。その多くは編纂掛の学者たちの手になるものでした。リースが第5号で、彼の同僚であった日本人たちに向けて、資料の公刊という重要な業務に集中すべきだと助言するまで、史学雑誌では思弁的な問題が扱われていたということが今もよく言われます。第4号までの記事がそれなりに漠然とした主題を扱っていたのは確かです。しかし、彼らが哲学的な問題について高尚な議論を交わしていたとまで思う人はいないでしょう。

*原文中では documents,materials,resources などが混在しており、しかも historical が付いたり付かなかったりしますので、訳語を厳密に対照させることが非常に困難です。とりあえず、「資料」「歴史資料(史料)」「文献」「素材」など、文脈で判断しながら訳し分けてはいますが如何ともしがたいところがあります。



 史学雑誌の最初の記事は、重野安繹による史学会会長就任講演「史学ニ従事スル者ハ其心至公至平ナラサル可カラス」でした。重野は言います。偏った歴史家は不公平で学問の発展を妨げる。歴史叙述は統治者と被治者の明確な関係(=名分)のような道徳的規範を教えるべきである、という考え方を、重野は徹底的に批判しました。歴史家は事実を叙述することに集中すべきであり、道徳的な意味合いはその中で自ずと明らかになるものだ、というのが重野の考えでした。歴史家の仕事は疑問をただして事実を確定し、それをそのまま記録することだったのです。そしてその仕事がいかに困難であったかということを、重野は自分の経験に基づいて語りました。

 これを思弁的で高尚な議論だ、というのは無理でしょう。リースの助言以前に編纂所の所員たちが書いた記事も、重野の講演も、彼らの実際の業務と密接に関連したものだったのです。他の例を挙げると、星野恒は「史学公共歴史編纂ハ材料ヲ精択スベキ説」のなかで、信頼性の高い文書(もんじょ)〔primary documents〕を優先して用いるべきだと説きました。他の記事でも、星野は考証学の本文批判の方法論を組み合わせつつ、一次資料〔primary documents〕を収集することの重要性を説いています。歴史(学)と輿論の関係を扱った講義の中で、星野は改めて歴史学の自立を正当化し、また、歴史叙述は利用可能になった資料〔the sources〕を適切に用いるべきだと強調しました。そして、編纂掛は資料〔resources〕の不足に苦しみながらも、その試みを続けてきたのだと。

 史学雑誌上で思弁的な議論をした人の多くは編纂掛の所員ではなく、歴史研究者ですらありませんでした。言語学者の上田万年は、歴史叙述が事例を提供し、哲学がそれを整序して意味づけるのだと述べました。上田も事実の確定は道徳や政治から自由であるべきだと考えていました。これらを見ても、編纂掛とその所員たちは手に負える程度の課題に専念すべきだ、というリースの提言は、編纂掛の方針と非常によく調和したようです*。

*このあたりの筆致を見る限り、資料収集と事実の確定を重視するという点において、編纂掛の方針とリースの考え方は元来近かったとメールさんは考えていたようです。リースの影響によって資料重視方針への変化が起こったわけではありませんよ、という主張を強調していると思います。前節の記述とも一貫しています。



 このように、当時の歴史家たちは資料収集〔collecting sources〕と本文批判の方法論に没頭していました。1895年頃に編纂機関の再編がおこなわれますが、そのときも文書の収集〔collecting documents〕が彼らにとっては変わらず最も重要な目的だったのです。

(この節は長いので前後に分けることにします)







学問分野としての歴史 マーガレット・メール『19世紀日本における歴史(学)と国家』#3


History and the State in Nineteenth-Century JapanHistory and the State in Nineteenth-Century Japan
(1998/03)
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#3 西洋式研究法の習得:ルートヴィヒ・リース

#1 日本における学問的伝統
#2 帝国大学における歴史学

 第3回です。帝国大学における史学科、国史科の設立に大きな影響を与えたのはドイツ人歴史家のリースでした。では彼はいったいどのような教育と研究をおこなっていたのでしょうか。

 明治政府の歴史編纂機関の職員たちは、かなり早い段階からヨーロッパの歴史編纂についての方法を学ぼうとしていました。リースが帝国大学にきたことで、彼らは初めてヨーロッパの方法論――より厳密に言えば、ドイツで生まれた本文批判を中核とする歴史研究の方法論――に直接触れることができました。彼らはそこからどのような利益を得たのか、また日本における修史事業にリースが与えた影響はどのようなものだったのでしょうか。

 リースはベルリン大学で歴史と地理学を学びました。ランケが創設したゼミナールの出身であり、ランケの弟子たちが継承していたランケ的歴史研究の方法論を習得しましたが、ランケの直接の教え子ではありませんでした。リース自身も講義の中でランケを「史上最も偉大な歴史家」と呼び、また史学雑誌にもランケに関する論文を投稿しています。リースがランケに敬意を抱いていたことは疑いないでしょう*。

*引退したランケの書写生をリースが勤めており、私的に親しい接触はあったとする文献もあります(林健太郎「ランケの人と学問」(世界の名著47『ランケ』所収))。ランケとリースの学問的影響関係については検討の余地がまだあるようです。



 リースは「中世イギリス議会における選挙権の歴史」という博士論文で学位を取得しています。リースの指導教官は政治史・軍事史家のハンス・デルブリュックでした。デルブリュックは特にランケ学派というわけではなく、イギリス史に強い興味を持っていたと言われています。リースが招聘された理由には諸説ありますが、ドイツ学問の評判が既に日本にも伝わっていたこと、またドイツが日本の憲法制定のモデルとなったことは特に重要でしょう。歴史の研究は国制というものを理解するため必要であると見なされていたのです。とはいえ、リースはドイツ人ですがあくまでイギリス憲政史の専門家でした。なぜ日本はドイツ人でドイツの歴史学研究法に精通したドイツ憲政史の専門家を選ばなかったのでしょうか? これについては、当時の帝国大学では英語で授業がなされていたので、英語に精通した教員が求められたのではないか、と著者は推測しています。リースは日本で15年間を過ごし、帝国大学の他にも慶應義塾大学やドイツ東洋文化協会などで講義を持ちました。

 リースは帝国大学で何を教えたのでしょうか。『歴史学方法論』『全世界史』『全世界史概観』『イギリス憲政史』といった講義録が残されています。リースは歴史研究が科学的な性格を持っていることを強調し、歴史家の方法論や補助的な学問分野について、また史料批判の方法論にも言及しました。歴史叙述の分類もしています。それに対して歴史哲学は導入で簡単に述べる程度でした。リースはランケを引用して国家間関係(特にヨーロッパの)について述べる一方、植民地帝国やアメリカ合衆国については簡単に述べるにとどまりました。彼の専門である『イギリス憲政史』では、憲政史を単なる法体系の歴史ではなく、政治と社会体系の歴史として捉えようとする広い枠組を提示しました。リースの講義は日本の学生にも理解しやすかったと言われています。とはいえ、アッシリアとバビロニアの古代文化のような題材は、日本の学生にはさすがになじみの薄いものだったようです(「どうもピンときませんでしたよ」、とは教え子たちの回想の言葉)。

 リースは講義の他にゼミも開いており、そこではアメリカ独立宣言の文言やジョン・ロック、ジェファーソンの演説などが題材として読まれていました。本文批判の方法は、日本語史料を用いて教えられました。編纂機関が収集した資料が活用されたようです。題材のひとつは島原の乱でした。リースは原文書の利用を許してくれた重野と、それを訳してくれた学生にお礼の言葉を残しています。そしてリース自身も、ベルリン大学で身につけた方法論と日本の史料を組み合わせて16~17世紀の日欧関係史を研究していました。

 リースの学生の多くが日本史のテーマで卒業論文を書きました。ヨーロッパ史を専攻するものも含めてです。リースの同僚であった坪井久馬三も学生にそう勧めていました。彼はヨーロッパ史について論文を書いても、ヨーロッパの歴史叙述の要約にしかならないと考えていたのです。リースの教え子たちはのちにリースの後を継いだだけでなく、中国史、日本史などのポストをも占めるようになり、また歴史編纂機関でもリースの教え子たちが要職を占めるようになっていきます。

 帝国大学での15年にわたる職務を終え、ドイツに帰国したリースは教育と研究の公刊に従事しました。リースの業績はドイツではまもなく忘れられてしまいましたが、日本では今もなお彼の果たした役割の大きさが語り継がれています。リースは日本と日本人学生に心を開きましたが、それは彼が若く、海外経験も豊富だったからかもしれません。リースは西洋の学問が優れたものであり、ヨーロッパの歴史は日本人学生にとっても重要であると信じていましたが(アッシリアやバビロニアの古代文化さえも!)、教え子には日本の歴史を研究するよう勧め、彼自身も日本についての歴史研究をおこないました。リースは帝国大学に日本史学という研究分野が形成されることに寄与し、彼の教え子たちは帝国大学をや私立大学で教鞭を執るようになりました。

 とはいっても、やはり日本の近代歴史学に対するリースの貢献は過大評価され気味です。リースは雇用者の意図を越えて独自に何かを為したわけではありません。地位も低く、日本人教授のように講座を与えられることはありませんでした。また、リースの影響を考える上でも、西洋史と日本史が元来別々の起源を持っていることを踏まえて、この二つは区別して考えねばなりません。長きにわたり、日本史は徳川時代に教育を受けた世代とその教え子たちによって教えられていました。重野安繹たちの後を継いだのは古典講習科の卒業生でした。リースの教え子たちはいわば第三世代になってようやく影響力を持ち始めたのです。もちろん重野安繹や久米邦武はリースとその方法論に接する機会がありましたが、彼らはリースよりも年長であり、地位としても既にその高みにありました。たとえ彼らがリースの教えを受けようと思っても、学部生たちと机を並べて講義を受けるわけには行かなかったでしょう。リースは大きないくつかの貢献をしましたが、全体で見れば、修史事業はリースが日本に来る20年前からずっと同じやり方で続けられていたのです。


学問分野としての歴史 マーガレット・メール『19世紀日本における歴史(学)と国家』#2


History and the State in Nineteenth-Century JapanHistory and the State in Nineteenth-Century Japan
(1998/03)
Margaret Mehl

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#2 帝国大学における歴史学

 続きです。今回を受けて前回の内容にも若干書き直しを加えています。

 帝国大学(1887年までは東京大学)に史学科が設置されるのは1887年のことです。それ以前は法学科と哲学科でヨーロッパ史と日本史に関する授業がおこなわれていましたが、教師はその分野の専門家ではありませんでした。日本人は自国の歴史を学ぶべきであるという外国人教師からの提言もあり、しばしば設置は試みられましたがなかなかうまくいきません。歴史の専門家が当時の東京大学にいなかったことがその理由の一つとして考えられます。では誰が日本史を教えていたのでしょうか? 国学者です。古典講習科という組織が置かれ、そこに所属する国学者が日本文学と日本の歴史を教えていたのです。

 こういった状況の中、ドイツ人歴史学者であるルートヴィヒ・リースが帝国大学に着任し、半年後には史学科が設置されることになります。これはリースの助言によるものだろうと言われています。しかし、この段階では史学科は事実上のヨーロッパ史学科でしかありませんでした。日本史学科を設立しようとする計画はこのころ既にあったようですが、はっきりとしていません。日本史学科の設立の直接的なきっかけとなったのは、政府の歴史編纂機関(修史局)の帝国大学への移管でした。この移管に際して当時帝大総長であった渡辺洪基は、修史局の手がけてきた修史事業は科学的な方法論が欠如しているために成果を出すことができなかったのだ、と述べ、同時に、これまで修史局が集めた資料、また局員たちの知識は新しく設置される学科の財産となるだろうと述べました。この言葉通り、局員の何人かは帝大の教授となります。

このあたり、日本史学科設立計画と修史局の帝大移管の前後関係・因果関係がはっきりとしていません。日本史学科設立を望んでいた渡辺が、そのために修史局(の移管)をうまく利用した印象ですが、読むだけでは断言できません。



 修史局移管の翌年、リースが日本史学科設置の要望書を提出します。ここで注意すべきなのは、日本史学科は既存の史学科の補助的な役割を果たすものとして位置付けられていることです。日本史学における学問の基礎が確立されるまでの間は、日本史学科は史学科と一体のものとして扱われるべきものでした。リースは彼の持つ歴史学の方法をまず学生に伝え、学生たちがそれを日本史の研究に応用することを期待していたのです。

 ようやく設立された日本史学科(固有名詞としては「国史科」。「国史学」でないことに着目)ですが、その実態は混然としたものでした。まず学生が集まりません。また、修史局出身の教授だけでなく、国学者たちも相変わらず日本史を教えていました。史学・国語学・国文学といった領域の中でそれぞれ日本史が教えられていたのです。西洋史・中国史・日本史が並立した一つの学問領域として見なされるようになるのが1904年、またその三つがそれぞれ独立した学科となるのは1919年のことでした。国史科の設置は重要なトピックではありましたが、日本史学が歴史学として独立した学問分野となるための一つのステップにすぎませんでした。

 もう一つの重要なステップは、史学会の創設と機関誌『史学雑誌』の刊行でした。史学会は外国人教師、修史局員、古典講習科の国学者まで幅広い会員を有し、研究の交流と成果の発表をおこなう場となったのです。

→ #3 西洋式研究方法の習得:リース に続く

#1 日本における学問的伝統

学問分野としての歴史 マーガレット・メール『19世紀日本における歴史(学)と国家』#1

History and the State in Nineteenth-Century JapanHistory and the State in Nineteenth-Century Japan
(1998/03)
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#1 日本における学問的伝統

 この本は近代日本における歴史学の成立を扱ったものです。英語版が刊行されておよそ15年が経ちますが、いまだに邦語の類書は存在しません。明治維新以前から日本に存在した学問の伝統と、西洋から継受した近代的な学問としての歴史学の双方に配慮の行き届いたモノグラフであり、当該分野においては今もなお重要な先行研究です。この本の第5章、学問分野としての歴史(学)が日本に成立していくまさにその過程を扱った部分をここしばらく読んでいました。きわめて大まかにではありますが、まとめていきたいと思います。

 日本では歴史を叙述することについて長い伝統があります。私たちが参照できる最古の記述資料は歴史書です。資料を集め、歴史的な事実を確定するという歴史研究の方法は徳川時代から存在していましたが、西洋歴史学のような学問分野としての歴史学の成立は19世紀の後半を待たねばなりません。

 日本における歴史学の成立に大きな役割を果たしたのは、明治政府が設置した歴史編纂機関の職員たちでした。彼らの多くは漢学の素養を持ち、「考証学」というtext critic(本文批判)の方法論を身につけていました。彼らは考証学の方法論に基づき、資料の収集と比較検討、歴史事実の確定に非常に重きを置きました。その代表者としては重野安繹の名前をあげることができます。彼らが任されていた歴史書の編纂事業においてもその特徴は明確にあらわれており、彼らは編纂業務そのものと同じぐらい、時にはそれ以上に資料の収集に力を注ぎました。できる限りの質と量を備えた資料を集め、できる限り正確に事実を確定した年代記をまず作成し、それをもとに編年体の歴史書を編纂しようと考えたのです。

 こういった彼らの姿勢は時に国学者との対立を生みました。例えば天皇家の系譜についてより厳密に事実を確定しようとすれば、天皇家の系譜の正統性について道徳観念に基づいた解釈を交えた議論をする国学者との対立は避けられませんでした。こういった対立は解決に至ることなくのちのちまで続きます。こういった経緯もあり、編纂機関の職員たちは自分たちが道徳的な偏見をもたないことを次第に強調するようになっていきます。

 彼らの興味関心は公的な業務の範囲だけにはおさまらず、私的にも歴史にまつわる会合を持つようになっていきます。業務の中で生じた疑問点を報告・相談しあったり、日本語の記述方法や、イモの歴史について報告した人もいました。特筆すべきは久米邦武の報告です。彼は資料の用い方についての綱領とでも呼ぶべきものをこの会合において発表したほか、歴史物語として広く親しまれていた「太平記」が、資料的根拠による裏づけに乏しいことを指摘しました。

 こういった主張の傾向を持つ彼らを、歴史家の大久保利謙は江戸時代の考証学の伝統から区別して「新考証学派」と呼びました。漢学の強い影響を受け、個別の事実にこだわり、公的な修史事業の重要性を強く説いたからです。先述したように、彼らはその信念に基づいて数多くの資料調査・収集をおこないました。その作業の中で、修史事業に用いる資料の分類が次第に明確になっていきます。最も大きな分類は、記述の根拠として用いられる日記や基礎文書(おそらく行政文書や統計資料などを指しています)と、参考としての軍記・戦記・物語との区別です。後者は手に入れやすいけれども、後世に作られた記録なので信頼性に欠けるというわけです。またもうひとつ強調すべきなのは、資料収集の方法です。彼らは江戸時代に収集された資料を調査したり、地方自治体に資料収集を任せるだけでは不十分と考えるようになり、自ら資料収集のために現地におもむくようになりました。そこで彼らは寺社や資料を持っていそうな個人宅を直接尋ねたり、また地方官を通じて住民に資料を持ってきてくれるよう呼びかけたりしました。そうやって集められた資料は筆写され、時には現物を借り受けて持ち帰ることもありました。

 

このような、公的な修史事業を目的とした直接的資料収集への強いこだわりは、今日に至るまで日本の歴史学に大きな影響を及ぼしているように私には思われます。近代歴史学の祖と呼ばれるランケですら、ベルリン王立図書館を初めとする文書館・図書館の所蔵史料を駆使して数多くの著作をうみだしたのですから。もちろん、これらは歴史的な諸条件の違いによるものなのであって、どちらが歴史学の方法として優れているとかそういった類の話ではありません。



 資料は国中から恐るべき規模で収集されました。それらがすべて修史事業に活用されたとは考えにくく、資料の収集それ自体が目的化していたと考えてよいでしょう。この過程を通じて、歴史書の編纂の前段階にあたる、資料の収集と資料集の編纂が大きな価値を持つものと考えられていくようになります。こういった認識はのちの「アカデミズム史学派」の思考様式に大きな影響を与えます。つまり、この段階で資料の収集と資料集の編纂に大きな力が注がれたことは、日本に独立した学問分野としての歴史学が成立するための重要な条件の一部をなしていたのです。そしてその次の重要なステップが、帝国大学に史学科が設置されたことでした。

→ #2 帝国大学における歴史学 に続く


重野安繹と久米邦武―「正史」を夢みた歴史家 (日本史リブレット人)重野安繹と久米邦武―「正史」を夢みた歴史家 (日本史リブレット人)
(2012/03)
松沢 裕作

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