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汝びびることなかれ


論文作法―調査・研究・執筆の技術と手順 (教養諸学シリーズ)論文作法―調査・研究・執筆の技術と手順 (教養諸学シリーズ)
(1991/02)
ウンベルト エーコ

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 言わずと知れたウンベルト・エーコ『論文作法』である。大学の師匠がゼミで薦めていたので購入して持っていた。引越の時に一度手放してしまったが、やはりこれは持っていなければと思い直し最近また買った。読むたびに背中を押してもらう場所は違うが、今回はここだった。

 論文であれ(また時には)印刷された書物であれ、著者がひっきりなしに、乞われもしない弁解を繰り返しているものほど、じれったく感じさせるものはない。〔…〕
 悠然と、「こう思う」とか「こう考えられる」と言いたまえ。君が語っているときには、君がエキスパートなのだ。もしも君が偽のエキスパートだということが見つかれば、損をするのは君だが、しかし君には躊躇している権利はない。君はその特定テーマについて共同体の名において語る人類の役人なのだ。ものをいう前には謙遜かつ慎重でいたまえ、だがいったんしゃべり出したときには、高慢かつ尊大でいたまえ。〔…〕
 またたとえ、そのテーマについて語られたすべてのことを要約しただけで、何ら斬新なことを付け加えていない、編纂的な論文を選んだとしても、君は他の権威者たちによって語られたことについては一権威者なのだ。そのテーマについて語られたすべてのことを、君以上によく知っている者は皆無のはずである。

(第V章6節 学問上の矜恃 221-222頁)

 エーコのこの本は、たどりつくべき高みを示すだけでなく、もがき苦しむ者が手を伸ばすべき藁を同時に差し出してくれているのがすばらしい。苦しむ者に寄り添うとはこういうことである。

 なお、指南書然とした形式ではなく、一学者のノンフィクションコメディ的な形式で、論文を書く行為が学者の日常の中にどのように組み込まれているかを知りたければベッカー先生の日常をのぞかせてもらうのがよい。

ベッカー先生の論文教室ベッカー先生の論文教室
(2012/04)
ハワード・S. ベッカー

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 学術出版の世界はジャマーノ編集長が教えてくれる。
 
ジャマーノ編集長 学術論文出版のすすめジャマーノ編集長 学術論文出版のすすめ
(2012/04/21)
ウィリアム ジャマーノ

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消費文化史研究の見取り図 草光俊雄「消費社会の成立と政治文化」


欲望と消費の系譜 (消費文化史)欲望と消費の系譜 (消費文化史)
(2014/07/28)
ジョン・スタイルズ、ジョン・ブリューア 他

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・草光俊雄「消費社会の成立と政治文化」(草光俊雄・眞嶋史叙監修『欲望と消費の系譜』、NTT出版、2014年、3-23頁)

 読書会をするので自分のための読書メモとして要約を残しておく。必ずしも会のためのレジュメではない。
 
 〔この章は本書を第1巻として新たにはじまった「シリーズ消費文化史」のコンセプトを説明すると同時に、本書に収められている他4本の論文の研究史上の布置を説明する役割も担っている。〕

 30年ほど前から、歴史学においても消費文化についての研究が本格的におこなわれるようになった。この潮流は経済史、社会史、またオーソドックスな政治史、思想史の分野にも認められる。経済史を例に挙げると、これまでは「生産」という観点から様々な研究がなされていた。ここに「消費」の観点を導入することに大きく寄与したのはプロト工業化論と呼ばれる学説であった。プロト工業化論自体は消費そのものを分析しないけれども、遠隔地交易と市場に投入される商品生産ネットワークの形成、またその商品を生産する地域の農業との関係を組み込んだ理論的枠組みを持っており、これが消費の側面を強く意識した生産流通の研究を生み出すことに貢献したのである。消費社会の形成・成立の劃期についてははじめ17世紀とされ、のちに18世紀とする説が主流となった。
 消費行為は経済的行為として現れるが、その背後には文化的要因が存在する。この要因を解明することで、経済だけでなく、政治、社会、文化的な行動原理をも明らかにすることができると考えられる。この点は従来の歴史学の手薄な部分であった。この種の研究を進めることによって、権力の構成要素として富が機能するだけでなく、ある一定の価値観に従って消費をおこなう振る舞いそれ自体が政治的力の表現として機能することを指摘できる。たとえば「ポライト」のような、社会的・文化的規範を表現する言葉が、政治や経済的な力を表現する具体的な言葉に転化していくというプロセスは、固定的な身分社会の崩壊と流動的な社会への転換がおこなわれたことを示すであろう。

 私人が経済活動をおこない、そこで得た財産を消費のために用いたとしても、結果的に社会全体が繁栄すればそれも一つの「徳〔ヴァーチュー〕」である、という考え方が市民権を獲得したのは18世紀イギリスにおいてである。こういった価値観に支えられた社会の成立を「商業革命」「消費革命」などと呼ぶ。これは交易を国家の富の増大として重要視する「重商主義政策」とその結果の経済成長によってもたらされたものであった。こういった変化はイギリス以外の国でも起きており、むしろイギリスは遅れて参入したほどであるが、やがてもっとも強力な推進国となった。
 消費の特性を捉えるに当たって用いられる分析概念の一つが「顕示的消費〔コンスピキュアス・コンサンプション〕」である。「顕示的消費」とは富の所有を他者に認めさせるためにおこなう消費活動である。「顕示的消費」、またそれを担う階層が形成した商業社会を挑発的な口ぶりで礼賛したのがオランダ出身の医師、バーナード・マンデヴィルである。彼は著書『蜂の寓話』に「私人の悪徳、公共の利益」という副題をつけた。マンデヴィルが礼賛したような、商業や腐敗、奢侈を追求した株式保有者や官職保有者たち新しいエリートは、古い価値観の持ち主や、また別の新しい価値観を生み出そうとする人々から批判された。その批判の多くは、新しいエリートらの価値観が社会や国家における宗教や「徳法意識〔ヴァーチュー〕」を貶めるものであるとみなしていた。批判者たちの中にはシヴィック・ヒューマニストもいた。彼らは支配の正当性を、土地所有を背景に国防を担うことのできる「自由の擁護者」たちの「徳〔ヴァーチュー〕」に求めており、この徳が新たな価値観にとってかわられれば英国の国政は崩壊すると主張した。
 新しいエリートたちは徳に代わって「作法〔マナーズ〕」という価値観に依拠した。商業は情念を洗練させ、作法へと磨き上げるという説明が当時にはなされていた。〔このあたり、ポーコックの議論が前提とされていて本文がかなり説明不足な印象を受ける。〕また、別の一派は消費社会を肯定しつつも、「作法」を古い「徳」に代わる「徳目」として認知させねばならないと考えた。社会の繁栄についてビジョンが共有されていたとしても、利己心を悪徳と見なしつつ肯定するか、それはあくまでも否定するかという点で主張の違いはあった。この問題をより整合的な形で解決しようとするのが、次世代のスコットランド啓蒙主義のヒューマニストである。

 近代市民社会を成り立たせるためのインフラストラクチャーの一つに、ハーバーマスが提唱した「公共圏」がある。この公共圏自体の成立が18世紀イギリスにおける商業社会や消費社会の成立と軌を一にしていることに注目すべきである。18世紀イギリスでは「文化」の消費がはじまり、それを流通させるための文化市場が成立した。そして消費される文化を提供するための文化産業も次々に生まれた。この流れの中で、自然もまた文化として消費されるようになった。「風景式庭園」の造成や観光は顕示的消費となり、こういった行為の積み重ねがイギリス人の自然観や田園観を築いていった。
 無論18世紀に成立した公共圏がすべての階層に共有されていたわけではない。とはいえ、前工業社会における民衆〔≒モラル・エコノミーの体現者〕は、商業社会を謳歌した人々〔≒ポリティカル・エコノミーの体現者〕との間で文化的価値を完全に共有せずとも、彼らなりに新しい商業社会の恩恵は被っていたであろう。民衆、特に農民の多くが消費社会の発展によってどれほどの恩恵を被ったかについてはまだ評価が定まっていない。

 アダム・スミスの『国富論』が提起した問題のひとつ、つまり、圧倒的に多数の貧しい生産的労働者が少数の非生産的階層の奢侈を支えていながら、それでも全体として資本主義〔スミスは市民社会〔シヴィル・ソサエティ〕と呼んでいる〕における労働者の生活がほかの社会形態の下層民のそれよりも裕福なのはなぜか、という問題は、今の我々にも突きつけられている。18世紀におこなわれた奢侈批判は政局の腐敗への批判であったが、また一方で価値観の転換を巡る論争でもあったのである。

 〔コンセプトの説明と導入のための序文なので、これだけを読んでも説明不足の感があるのは致し方ない。個人的にはこの序章だけ読むと「顕示的消費」論を全体的に補強する論集であるような雰囲気がするのが気にかかる。顕示的消費論は今もそこまでメインストリームなのだろうか。
 たとえば日本近代史における大衆消費社会の形成については満薗勇『日本型大衆消費社会への胎動』という研究がある。ここでは、嗜好品や高級品の顕示的消費だけでなく、日用品や耐久消費財についての顧客の嗜好の多様化を受けて小売業や在来産業、流通機構がおこなった自己革新や宣伝戦略が日本における大衆消費社会を準備する上で大きな役割を果たしたことが指摘されている。〕




日本型大衆消費社会への胎動: 戦前期日本の通信販売と月賦販売日本型大衆消費社会への胎動: 戦前期日本の通信販売と月賦販売
(2014/02/18)
満薗 勇

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穂村弘『絶叫委員会』にほんとうは起きていること


絶叫委員会絶叫委員会
(2010/05)
穂村 弘

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詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること
(2014/02/24)
阿部 公彦

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穂村『絶叫委員会』は最後の方で出てきた「偶然性による結果的ポエム」というフレーズが全てを持って行ってしまった。本を一冊使って宙ぶらりんのまま取り扱い続けてきた得体の知れぬ気持ち悪いけど心をざわざわと触っていくことばの働きの実例たちに、最後にまるっと名前をつけてしまう。戦略的だ。

目前にあるものに名前をつけたいと思ってことばを欲するその行為が詩への一歩だと言ったのは阿部公彦で、穂村はその実例を転がしたあげくにそれそのものに名前をつけて包摂してしまうという模範演技を見せてくれたのだった。

ただ、この二つの本は同じことを一見別のアプローチから言っているように見えるのだけれども、どちらかと言えば阿部は混沌から形式化へとうごめいてゆく流れの中に詩的なものの生成を読み取り、一方で穂村は定型・標準・形式からの偶然性による逸脱の瞬間に詩的なものが生成する事例を選好している、という違いはあるように思う。まあ両方の中に生成していて、どっちの方をクロースアップして説明しているかの違いだろう。
作品をつくるという方向性での詩作が前者であり、名言や箴言は後者に属するともおそらく言える。それはつまり、意識的になにかを作りあげていく行為の大半が偶然性を削ぎ落としていく作業であることを意味している。

『伝記文学の誕生』の三歩ぐらい手前から


伝記文学の誕生 (東海選書)伝記文学の誕生 (東海選書)
(1982/01)
アルナルド・モミリアーノ、柳沼重剛 他

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どうも気まぐれに更新される髭自慢です。自慢できたもんじゃありませんね。

ついモミリアーノ『伝記文学の誕生』という本を読んでいてというか厳密には読もうとしていて、行儀の悪い読者であるところのぼくは本文よりも先に、巻末に収録されていた訳者・柳沼重剛と佐伯彰一の対談を読んでしまう。

そもそもこの本は古典古代以来の歴史と伝記の関係について扱ったもので、伝記が歴史の一部として確固たる位置を占めるに至った現代から振り返れば、なぜギリシア人たちは伝記と歴史をああも異なるものと見なしたのかを問うてもよい、とモミリアーノは言う。モミリアーノ曰く、もちろん現状に至るまでの間に歴史と伝記の間に緊張関係は絶えず存在していて、その距離感には振幅がある。例えばドロイゼンは歴史の中心にいた人物は歴史の対象であり、その周辺にいた人物たちこそが伝記の対象であるという。一方ブルクハルトは伝記及び自伝の発見をイタリア・ルネサンスの重要な要素と見なす。そしてクローチェは歴史において大事なのは出来事そのものであって、その出来事を生むに至った人間の意図ではないと強調する。これだけでも見事に三者三様の距離の取り方があって一筋縄には行かないのはよくわかる。

まあ実際にギリシアでどうだったかはモミリアーノ先生の本文に任せるとして(何しろぼくはまだ本文を読んでいない)、行儀の悪い読者であるところのぼくがふむふむととりあえず読んでいるのは巻末対談で柳沼と佐伯が指摘している歴史と伝記の違い、特に書き手が自分が書くものを歴史と見なす場合と伝記と見なす場合で依拠する資料を使い分けているのではないかというところ。

ここで例示されているのはクセノポンの『アナバシス』で、例えばある章である人物が戦死する経緯が描かれ、次の章がその人物の賞賛に当てられるとする。この二つの章は対をなしているにも関わらず記述に重複がなく、伝記的記述の部分をまるっと引っこ抜いても前後の章は「ほぞでつないだようにぴたっとはまる」。これはなかなか気になる指摘で、もしこの通りであるとするならば当時において歴史と伝記の違いはその対象とすべきものの歴史的重要性の軽重によって発生するわけでもなく、叙述の仕方つまりスタイルの違いにとどまるわけでもなく、対象のどの側面を何を使って何の目的で描くかによって規定されていたということになってくる。

いやその書き分けるために使い分けられていた「資料」とか「材料」って具体的にどういう概念的なまとまりのことを想定してるんですかとかこういう違いはやっぱり演説とか弁論とかそういう発話的なものと叙述の交錯するところだからこそ生まれるんですかとかこういう区別に類するおこないはほかの地域でも観測されますかとか疑問がもりもりわいてきて止まらないのでモミリアーノ先生が大活躍する本文を一刻も早く読み進めなければならない。

重なり合ういくつものコスモス 榎本恵美子『天才カルダーノの肖像』


天才カルダーノの肖像: ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈 (bibliotheca hermetica叢書)天才カルダーノの肖像: ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈 (bibliotheca hermetica叢書)
(2013/07/25)
榎本 恵美子

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 ジローラモ・カルダーノを扱った研究書を読んだ。
 カルダーノは医師であり、数学者であり、哲学者であり、占星術者だった。今でいう学問分野のようなものが細分化される以前の16世紀に生きた一種の万能人だと言ってよいだろう。あまりにも業績が多岐にわたっているせいでなかなかその全体像が把握しづらく、個々の分野でなした仕事がそれぞれの学問分野の枠組の中で位置付けられ、取りあげられてきた人物でもある。サイコロ賭博に関する本を書いているために確率論の先駆者として名を挙げられることもあるようで、もしかしたらカルダーノの仕事の中でこれがもっともぼくたちの日常生活と関わる部分であり、なじみのあるところなのかもしれない。

 この本は大きく三部構成になっている。1部が彼の人となりと業績について。占星術によって世界の秩序を把握しようとする試みと、自叙伝を通じて自己を深く把握しようとする二つの試みをつなげることによって、マクロコスモスとミクロコスモスを対応させた人物としてのカルダーノが描かれている。

 2部は彼の自叙伝である『わが人生の書』の研究。この本は彼の研究業績をリスト化し、自己宣伝をおこなうための手段として出版されたものであると同時に、先に書いたように究極的には彼の自己認識を深めていく作業の結実したものでもあった。とりわけ、自叙伝の中に挿入されている守護霊との対話編(しかもその守護霊は自分をカルダーノの父親だと名乗る)がこの『わが人生の書』の全体を統合する役割を持つものとして位置付けられており、自叙伝という形式の中で展開される哲学的思考が、当時存在した「慰めの文学」というジャンルに分類可能であることが指摘されている。

 3部が彼の自然哲学についての著書である『一について』の研究。「一」は善であるのか、それは美と同じものであるのか、といった古代以来の哲学の中で語られてきた問題を、この著作を通じてカルダーノは世界の秩序のあらわれの中に「一」なるものがどのように位置付けられるのか、といった切り口から説明しようとしているように思われる(このあたり専門外なので的外れかもしれない)。

 最後には補遺として著者あとがきと、坂本邦暢さんによる本書の解説が添えられている。坂本さんの解説は現在におけるカルダーノ研究の動向を簡潔にフォローするとともに、カルダーノをより深く理解するための補助線として、のちにカルダーノの著作に批判的論争をしかけたユリウス・カエサル・スカリゲルと、またそのスカリゲルが論敵として認識していた思想潮流との兼ね合いの中でカルダーノを捉え直していくことの必要性を指摘している。かなり長期間にわたってばらばらに書き継がれた論文を再構成したものである『天才カルダーノの肖像』を読むに当たって、坂本さんの解説はこの本の前後を貫通するとても明快な視角を与えてくれる。
 なお、第2部で取りあげられたカルダーノの自叙伝『わが人生の書』にはその全訳があるのだが、出版社がもう存在しないために入手が困難となっているのが惜しい。

わが人生の書―ルネサンス人間の数奇な生涯 (現代教養文庫)

 さて、単体で見ればこの『天才カルダーノの肖像』はけして読みやすい本ではなかった。カルダーノがどういう人物でありどういった内容の著作を残したのかを把握するだけでも前提知識の少ない僕には一苦労だし、本文の記述もカルダーノの思索とその思想史的な布置を再構成して明快に提示してくれるというよりは、かなり謎めいた語り口で謎めいたことをあちこちにむけて言っているカルダーノの意図を榎本さんがとてもとても丁寧に再話してくれる試みであるように僕には感じられたからだ。しかし全体を通して読んで、また8月3日におこなわれたこの本の刊行記念トークイベントに参加して、この本が、この論文たちがこのような形を取らなければならなかった理由が何となくわかったような気がした。著者の榎本さんはカルダーノ研究の先駆者であると同時に、特定の研究分野、研究機関に所属することなく、ご自身がつながりを維持していた学問的なコミュニティの支援の中でカルダーノとの対話を続けてこられた方だったのだ。それゆえに、榎本さん以外のカルダーノ研究が、坂本解説の言葉を借りるなら「『未来からさかのぼる』というアプローチ」、つまり近代哲学の前史としてのルネサンス哲学の一部としてカルダーノを見ていたのに対し、榎本さんはそういった拘束からかなり自由に、謎に満ちた巨人であるカルダーノに肉薄することができたのだと思う。あまりにも広大な絵に直面したとき、ぼくたちはどうしても不安に駆られてその全体像を視野に収めようとあとずさってしまう。しかし榎本さんはそこで立ち止まり、視野に収まった一つ一つのピースを丹念に描き写していったのだろう。長く濃密な時間が可能にした仕事である。

 そしてもう一つ。この本はよい意味で、単体で完結していない。何度も書いているように、カルダーノという人物を把握することは難しく、本書も必ずしも前提知識の少ない読者にとって読みやすいものではない。しかしそれをサポートする体制があらかじめ構築されているという意味で幸福な本である。編者のヒロ・ヒライさんがこの本の原型となった論文を見出し、再構成してこの本に形を与えたように、また坂本さんが解説でこの本を貫く視角を提示したように、カルダーノといういくつものコスモスを内包した人物を描いたこの本自体が、さらに重なり合ういくつものコスモスの中で意味を与えられてうまれている。

 本はマテリアルとして単独で存在する。その本を書いた著者も単独で存在する(単著であれば)。それらをつなげあわせ、自分なりの読書のコスモスを織りあげてゆくことは本を読むものに許された密やかな楽しみである。しかし他者の織りあげたコスモスに出会うこともまた本を読むものに許された刺激的な楽しみである。『カルダーノの肖像』はこれから新たに立ちあげられるbibliotheca hermetica叢書(=叢書 ヘルメスの図書館)というシリーズの先陣を切って刊行された。ぼくたちはヘルメスの図書館を訪れ、そこに並んだ書籍たちが織りあげるコスモスに触れることができる。そしてその一部を自らのコスモスに取り入れることもできる。重なり合ういくつものコスモスが人々の興味関心をつなぎ合わせ、研究はそれにより力を与えられる。かつて存在し、今はその力を失いつつあるように見える「人文書」という知のコスモスは、こういった営みの繰り返しによって新たな力を得られるのかもしれない。

この本を扱ったブログエントリは他にもいくつかある。
石版!:自叙伝によるカルダーノの解剖、そしてある女性研究者の肖像(榎本恵美子 『天才カルダーノの肖像: ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈』)
Commentarius Saevus:ルネサンスのマッドサイエンティストPOVノンフィクション~榎本恵美子『天才カルダーノの肖像:ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈』
THEOLOGIA ET PHILOSOPHIA:榎本恵美子『天才カルダーノの肖像』bibliotheca hermetica 叢書
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Author:higegeschichte
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