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口ごもる誠実さ/大戸千之『歴史と事実』


歴史と事実: ポストモダンの歴史学批判をこえて (学術選書)歴史と事実: ポストモダンの歴史学批判をこえて (学術選書)
(2012/11/23)
大戸 千之

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 グーチも読んだりまとめたり準備はしてるんですけど脱線ばかりですみませんね。でも最短コースしかだめって思っちゃうとしんどいよね。ていうか途中で面白いもの見つけたらとりあえずそっちに転がるでしょう? というわけで今回は大戸千之『歴史と事実』――ポストモダンの歴史学批判をこえて――です。

 学問としての歴史学はどういう風にできてきたのか、ということを僕は追っかけているわけでして、当然ながらその過程では「歴史学って何する/何のためにする学問なんだっけ」という問いはそこら中に転がっています。というか星の数ほどの先哲がその根源的な問いに唸りながらも実際に手と足を頭を酷使して、史料を使って、歴史を記述し、僕たちに様々な場所・時代の歴史を伝え、更新してきたわけです。そうやって積みあげられてきた歴史学の歴史の中でも、とりわけ強烈に歴史学者を悩ませたものとして、いわゆるポストモダンの立場からの歴史学批判というものがありました。簡単に言うと、近代に成立した学問としての歴史学が言うような、「客観的な歴史叙述」、つまりかつて存在した事実をありのままに再現して描くような歴史叙述というものはそもそも不可能なんじゃないの、という類の批判です。

 この批判は歴史学者、中でも史料にきっちり即して解釈を立ちあげ、広い範囲での共通理解を積みあげながら過去の再構築を目指していく方法をとる学風の人々(「実証史学」といいます)をいたく悩ませました。彼らは自分たちのいとなみについて、可能な限り正確かつ客観的なやり方でもって、過去に起こった出来事を把握し、描こうと努めている、という風に説明してきたからです。
 
 批判を受けて積極的に反論を展開した人も、衝撃を受けて手をとめてしまった人もいたようです。もっともベーシックな反論は次のようなものであったと僕は思います。歴史学者のいとなみの最も大きなよりどころであるところの「史料にきっちり即して解釈を立ちあげ」るという作業それ自体は、訓練を経て身につくある種の技能であり、そこには明確に言語化しがたいとしてもなにがしかのメカニズムが存在している。そのメカニズムの駆動を実地で体験してみれば、そのメカニズムから生み出される解釈には自ずから幅があることはわかる。過去に関する完全な証拠を手に入れることはできないからと言って、解釈は何でもありということにはならない。

 個人的にはこの反論はもっともだと思います。しかしこれは大事なメカニズムをブラックボックスのまま提示しているわけですから、そのメカニズムを内面化したことのない相手側がそうそう納得するものではない。その結果、なんとなく議論が噛み合わないまま熱が冷めて事態が沈静化しているのが現状だと著者は言います。しかし。「これは、曖昧なままにしておくべきではない問題であろう」(7頁)。そういった著者はどうするのか。次の問いに立ち戻ります。

《そもそも、歴史を「書く」とはどういう行為だっただろうか。彼らが批判するような、ありのままに過去の事実を再現して描くなどということをそもそも歴史学は目指していただろうか》

 批判に即座に反論するのでもなく、うちひしがれるのでもない。まず口ごもり、《私は相手が批判するような私であっただろうか》と自問する。口ごもる誠実さ、とでも呼びたくなる姿勢だと思います。ここから、古代ギリシアを専門とする著者は、「歴史を書く」とはどういうことであったか、それを古代ギリシアの歴史家たちをたどりながら確認していきます。章立ては以下の通り。

序章 今何が問題なのか――ポストモダニズムと歴史学――
第1章 歴史叙述の起源
第2章 ヘロドトス――事実とは情報である――
第3章 トゥキュディデス――事実とは解釈である――
第4章 ポリュビオス――事実の正確な理解を――
第5章 「循環史観」という神話
第6章 ランケの歴史学とその後――事実とは史料である――
終章 何が可能か

 この本の最大の特徴は「歴史を記録する」ことと「歴史を書く」ことを明確に峻別しているところです。後者には、「書く人間の主体的な問題意識と判断に立った説明」(20頁)が見いだされる。この視点から古代の歴史認識をたどると、おおむね次のような変遷が読み取れると言ってよいでしょう。

・神話や叙事詩(「イリアス」「オデュッセイア」)が歴史として信じられていた時代

・神話・叙事詩への懐疑(ヘシオドス)

・同時代の情報を吟味し、伝えようとする主体的な意思の発生(ヘロドトス)

・ヘロドトス+見聞きしたものを解釈・再構築して「語る」という行為の自覚的利用(トゥキュディデス)

・正確な事実へのこだわり、またそこから政治にとって有用な教訓を導き出すためには経験に裏打ちされた判断と洞察が必要であることの強調(ポリュビオス)

その上で、ポリュビオスの到達点が「現実に向けての問題をかかげ、歴史的事実のなかに問題の根源を探り、そのうえで何を考えることが重要かを語ろうとする、そのようなギリシアの歴史家のよき伝統」(206頁)と評価されることになります。あえて読み込めば、目的と方法論、そして方法論を身につけるための訓練の作法、この3つが意識されているという意味で、ポリュビオスが現在の歴史学にもっとも近しいものとしての評価を受けているように思います。

 歴史を「記録する」/「書く」ことを峻別して、歴史学のあゆみをたどろうとすること。この道筋は著者独自の、というか古代を対象とする史家だからこそ辿り得たものなのかもしれません。王や国家の記録が史官のような専門の役人によってのみ連綿と蓄積されるような光景は、また大きな事件を直接経験し、目にしたもののみがそれについて語りうるような光景は、誰もが誰かについての歴史を《記録しつつ書く》ことをおこなっている現在からははてしなく遠ざかってしまいました。

 著者の結論は平板です。
「「ありのままの事実を語る」とは、もともと「根拠のない作りごとは語らない」という意味であり、「史料的な裏づけをしながら語る」というのが本意であった」(247頁)
しかし、この平板な認識すら踏まえられていない/誤解されているのだとしたら、改めて歴史家がここに立ち戻り、その意図を説き続けることの意味は大きいでしょう。この軸足を再確認し続けることで、歴史家は文学やフィクションとも粘り強く関係を作りあげていくことができる。口ごもる誠実さは、仕事で相手を振り払う苛烈さと組み合わさって、強い。ガツンときますよ。
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『古文書学』の成立 佐藤真一『ヨーロッパ史学史』第Ⅲ部第3章「「博識の時代」における史料の収集と批判」


ヨーロッパ史学史―探究の軌跡ヨーロッパ史学史―探究の軌跡
(2009/05)
佐藤 真一

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 前回の記事では宗教改革の発生とそれに伴う教会史叙述の発展について概観しました。対立する宗派間の教理論争の道具として用いられたとは言え、史料を用いて自らの歴史的正統性を論証する、といういとなみがこの時期に活発化したことは覚えておいて良いでしょう。では、このトレンドはどのようにして古文書学の成立へとつながっていったのでしょうか。

 古文書の真偽、信頼性を判定するための学問的な方法としての古文書学の確立に大きな役割を果たしたのはジャン・マビヨン(1632-1707)です。長く続いた宗教戦争の影響で16世紀後半の修道院は荒廃しており、フランスにおいてはブルボン王朝の主導の下で修道制の再建が進められていました。この修道制再建のために上部組織として新しく設けられたのがサン・モール会です。フランス国王や宰相リシュリューから手厚い支援を受けていたサン・モール会は学問研究を重視していました。マビヨンはそのサン・モール会に所属していました。他派が学問研究を主に聖人の研究に限っていたのに対し、サン・モール学派は教父学、典礼、公会議史、フランス史までを幅広く手がけ、古文書学、古字体学、年代学などの歴史補助学を開拓する業績を上げました。中でもサン・モール学派が手がけた大きな仕事は修道会史の執筆でした。この仕事はマビヨンの主導の下、のちに『聖ベネディクト修道会聖人伝』としてまとまります。

 マビヨンはシャンパーニュ近隣の小村の出身でした。ランスの神学校で哲学と神学を修め、司祭になる直前に神学校を中退して修道士となります。特にマビヨンは教父や修道士、年代記作者の著作に精通しており、その評判は広く知られていました。そんなマビヨンの力を欲した人物がいました。サン・ジェルマン・デ・プレ修道院の図書館司書を務めていたアシェリです。アシェリはサン・ジェルマン・デ・プレ修道院の図書館収集物を再分類するという重要な仕事を任されており、そのためにマビヨンの助力を欲したのです。

 サン・ジェルマン・デ・プレ修道院に移ったマビヨンはクレルヴォーのベルナール全集の校訂新版を刊行する仕事を前任者から引き継ぎました。当時出まわっていたベルナールの偽文書を判別した上で、旧版の批評や新規の注、索引を付して刊行された新版は高い評価を得、マビヨンに名声を与えました。続いてマビヨンはベネディクト会の聖人たちの史料を整理する仕事に着手しました。マビヨンは既存の印刷史料を写本と対照して厳密な史料批判を行い、膨大な量の聖人伝・崇拝史を単に教化の材料としてだけではなく、歴史的な証言を拾い出す史料として生まれ変わらせました。マビヨンが『聖人伝』で培った史料批判の方法論は、のちの『聖ベネディクト修道会年代記』における歴史叙述にも存分に活かされることになります。

 マビヨンによる厳密な聖人伝の検証は高い評価を受ける一方、修道会に大きな波紋を引き起こしました。ベネディクト会との関係について史料的な裏付けの取れない聖人を叙述から排除したからです。マビヨンは同僚たちから中傷され、また修道会総会でも非難を浴びました。弁明の中でマビヨンはこう述べました。「もはや作り話を書いたり十分に実証することなく何かを主張したりすることが許されない、われわれの世紀のようなきわめて啓蒙された世紀においては、後者の道〔批判的に叙述すること〕が是非とも必要です」、と。

 マビヨンはこのように修道会史の執筆業務の中で、史料批判の実践を積み重ねていきます。しかしそこから単独で古文書学の体系化にたどりついたわけではありませんでした。マビヨンが古文書学の方法論を精緻化する作業に取り組んだのは、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院の名誉を守るためでした。イエズス会士の学者であったパーペンブレック(1628-1714)が、その古文書論の中でサン・ジェルマン・デ・プレ修道院の所蔵史料を偽文書であると判定したのです。メロヴィング朝期の国王文書を保管していた同修道院にとって、この挑戦は看過できないものでした。

 この時期に中世古文書の真偽が問われたことには理由があります。30年戦争の結果、ドイツ諸邦では都市や修道院の主権をめぐる法律上の紛争が多発することになりました。主権の正統性を議論する中で、その正統性を担保するところの特許状や古文書の真偽が争われることになったのです。フランスでは家系の正統性をめぐって同様の紛争が発生していました。しかし古文書の真偽を判定するための方法論は共有されておらず、不毛な論争に陥ることもしばしばだったようです。この問題に取り組んだのが、先述のパーペンブレックでした。パーペンブレックはトリーアのいくつかの修道院に所蔵されていた文書群を比較対照し、そこから古文書論を組みあげました。パーペンブレックの調査は少々性急に過ぎ、その古文書論も極端なものでした。少しでも改竄の加わった形跡のある文書は偽文書として退けられ、そこから真正の部分を峻別するという発想は見られませんでした。パーペンブレックの用いた基準に照らし合わせた場合、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院の所蔵史料の多くは偽文書となってしまいます。既に『ベネディクト修道会聖人伝』の編纂者として名高かったマビヨンが、この挑戦に立ち向かうことになりました。マビヨンは自修道院の文書を徹底的に再調査しただけでなく、各地の修道院を訪ねて古文書を探査しました。修道会士たちの協力、そしてコルベールの後ろ盾がマビヨンの挑戦を支えていました。

 こうしてマビヨンの著した『古文書学』は、文書の材質(羊皮紙、樹皮紙、パピルスはそれぞれいつ頃使われていたのか?)、文中で使用されている暦(教皇文書にキリストの受肉年が使用されはじめたのはいつからか?)、文書の記述様式(王はどのようなフレーズで文書を書きだすのか?)といった様々な要素の綿密な考証によって構築されていました。この業績により、パーペンブレックによって偽文書の疑いをかけられた多くの文書がその汚名を雪ぐことができました。マビヨンの『古文書学』を読んだパーペンブレックは、マビヨンに次のような手紙を送っています。

「全く反論できないまでに自分が打ち負かされているあなたの書物を読んだとき、私が不快な気持ちになったことは確かです。しかし非常に価値のある書物の有用さと見事さの前に、私の脆弱さは打ち砕かれてしまいました。〔…〕私があなたの考えに完全に同意していることを、いついかなる時でも、公然と遠慮なく仰って下さって構いません。どうか、私を愛して下さい。私は学者ではありません。私はもっと勉強しなければと思っています」(マビヨン『ヨーロッパ中世古文書学』、宮松浩憲訳、719頁)


『古文書学』がいかに精緻な反論であったかを伺うことができるとともに、パーペンブレックの真摯な態度が胸を打ちます。

 『古文書学』によってその名声を揺るぎないものとしたマビヨンは、『聖人伝』に続く『聖ベネディクト修道会年代記』の刊行途中でその生涯を終えました。マビヨンは『年代記』完結を見ることはできませんでした。しかし『聖人伝』の執筆過程で編み出された批判的な史料編纂の方法論と『古文書学』が『年代記』の歴史叙述を支え、近代歴な歴史学の基礎を形成することに大きな役割を果たしたのでした。


ヨーロッパ中世古文書学ヨーロッパ中世古文書学
(2000/03)
ジャン マビヨン

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真理の探究と歴史叙述 佐藤真一『ヨーロッパ史学史』第Ⅲ部2章「宗派時代の教会史叙述」


ヨーロッパ史学史―探究の軌跡ヨーロッパ史学史―探究の軌跡
(2009/05)
佐藤 真一

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 グーチは宗教改革に伴う教会史叙述の発展や、修道僧たちが古文書を用いて進めた研究についてあまりにもさらりと書き抜けています。しかし近代的な学問としての歴史学には歴史資料を扱う技術としての史料学が必ず伴うことを考えれば、ニーブールやヴォルフ、ベックらに大きな影響を与えた古典文献学だけでなく、古文書学の発展についても理解を深めておかなければなりません。行政文書を歴史資料として取り扱うためには、文書の真偽や信頼性を判定するための古文書学的な様式論が必要になるからです。新たな教会史を叙述するために教会が所蔵していた史料の多くが用いられ、日の目を見ることになり、さらにその叙述の当否が論争される中で古文書学の精緻化が進んでいきます。この流れについて、別の文献で知識を補うことにしました。

佐藤真一『ヨーロッパ史学史』(2009年、知泉書館)
第Ⅲ部「近代歴史学の形成」 第2章「宗派時代の教会史叙述」

 カトリックとプロテスタントの宗派分裂が起こると、両派は教理論争を繰り広げました。その論争の中で、教会史が活用されていきます。特にルターらプロテスタントによって、教会史叙述はカトリックの純粋性の喪失と没落を論証するために用いられました。歴史は論争のための手段だったのです。ルター派の古典語学者であったメランヒトンは、「神はわれわれが歴史を学ぶことを望む」というボリュビオスの言葉をしばしば引用しつつ、教会史叙述そのものを豊かにしようと試みました。残念ながらメランヒトンの努力はプロテスタントの歴史叙述全体の傾向を修正するまでには至りませんでした。しかしヴィッテンベルク大学においてメランヒトンが世界史の枠組の中で教会史を講義したことが、神学者たちによる歴史研究を促進しました。

 プロテスタント教会史に大きな足跡を残したのは、純正ルター派の神学者であったフラキウス・イリリクス(1520-75)です。彼の仕事は『マクデブルクの諸世紀教会史』として結実します。ルター派の教説はルターによって新たに発明されたものではなく、かつて存在した真理が再発見されたものである、という意図に基づいた叙述がなされている点が、フラキウスによる教会史叙述の最大の特徴でした。「いかにして真の教会とその宗教が使徒時代に見られたあの本来の純粋さと単純さから徐々に憂慮すべき誤った道に陥ったのか」(162頁)が説明されなければならなかったのです。フラキウスは「真の歴史」をあきらかにするためにより古い史料を用いることを望み、様々な史料を探索しました。その徹底ぶりは、敵対宗派であるカトリックの史料を手に入れるために、変装した協力者を修道院の図書館に派遣するほどでした。フラキウスらの教会史は教皇制を論駁するための材料を提供することを目指していたため、それまでの歴史叙述が採用していた編年的な叙述に加え、部分的に主題別の内容構成が採用されました。この新奇性を持った構成はそれに慣れない同時代人からの反発を招きました。しかし、フラキウスらが目指したのはあくまでも闘争手段としての教会史叙述であって、純然たる歴史を描くことではありませんでした。必要な情報を検索しやすくするためのシステムを設け、その中に教会史を組み入れたのです。また、このような叙述姿勢が要因で、フラキウスらの史料批判は不十分でした。史料の時代差は考慮されず、教皇制への反駁材料となる史料は無批判に採用されていました。フラキウスらの業績は近代的な教会史叙述の前史として位置付けることができます。

 カトリックの側もプロテスタントによる反駁を黙って見ていたわけではありません。カエサル・バロニウス(1538-1607)が、「カトリックの立場からする、神学的論争を考慮に入れた教会史」を描くという困難な仕事に挑むことになりました。バロニウスがものした『教会年代記』の叙述は明らかにプロテスタントへの反論でした。しかしバロニウスは論敵の見解を直接的に論駁しようとはせず、むしろカトリック教会の真理をより明瞭に描きなおすというやり方で対抗を試みました。年代記の形式の中で、常に変わらない真理を保持し続けた教会の姿を描くことで、カトリックの歴史的正統性を証明しようとしたのです。その姿勢からもわかるように、バロニウスは「年代記」という書名を自覚的に付しています。古代の著作家であるゲリウスの分類に従い、「『歴史』は著者自身が見たか、見たかもしれない出来事を記述し、『年代記』は著者自身が体験していない過去の報告を叙述する」と考えていたのです。ヴァティカン図書館長を務めたバロニウスは膨大な未刊行の史料を叙述に活用することができ、しかもフラキウスよりは厳密に史料の信頼性について吟味を加えていました。しかしそれでもなお、自らの立場に不利な史料を公平に用いることはできませんでした。

 フラキウスとバロニウス、宗教改革と反宗教改革、対立する二つの立場は二つの史書を生み出しました。両者は時として同じ現象について正反対の史料解釈を下しました。歴史の客観性という概念はまだここにはありません。しかし、この二つは自らの宗派の正統性を歴史的な叙述の中に打ち立てようとした点において、非常に類似していました。真理を求める熱意が叙述の新たな運動を生み出し、その過程で新たな史料の発掘や叙述形式の変化が起こったことは否定できないでしょう。そしてこのような時代状況の中で、とある修道僧によって古文書学の革新がおこなわれます。ジャン・マビヨン『古文書学』の誕生です。

(つづく)


ヨーロッパ中世古文書学ヨーロッパ中世古文書学
(2000/03)
ジャン マビヨン

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「柔軟な対応」か「恣意的操作」か――ブラックボックスとしての史料批判

専門家が「政治的」「嘘つき」というレッテルを張られて批判される。こう言ってよければ、罵られる。
今やそんなに珍しい光景でもないですね。むしろしばしばあることです。
ちょっとはその分野の学問をかじった人間からすれば、腹も立ちます。苛立ちもします。そして少し悲しい。
でも、罵る人も、どこか苛立っていると思うんです。

僕には他の学問分野のことはよくわからないので、歴史学を事例に話をしましょう。

先に書いたような批判が発生するのは、≪批判者の求める結論と専門家の導き出した結論が異なっており、なおかつ後者がどういうプロセスを経て出てきたものなのかが批判者にはわからない≫といった場合がほとんどかと思います。
結論を導く手続きが正当なものかどうかを判定できないので、苛立ちの中で結論の食い違いは属人的な恣意性に由来するものと見なして批判するしかない。
この苛立ちは誰かがどこかで受けとめないといけない。

どんな学問にも、専門分野としての作法があります。その上で、研究者個人の能力に由来する主観的・属人的な要素と、作法の厳密性によって反証可能性と再現性を担保される客観的な要素が両方あって、その均衡の上に研究者の知見というものは積み上がってゆく。
そして、多くの学問分野については、この主観的要素と客観的要素のどちらが重きを占めるかということについて、既になにがしかの一般的かつ固定的なイメージが流布しているように思います。
データをたくさん集めて分析にかけたり、厳密に何かを測定したりした上で不明な点を解いていくからどれそれの学問は客観的要素の占めるところが大きい。文献を読み解いて、研究者がそれを解釈して何かを言うからあれこれの学問は主観的要素の占めるところが大きい。
このように。
こういったなにがしかのイメージが相手側にあることがわかっていれば、こちら側の議論の信頼性を説明するにもアプローチがしやすい。

ところがこの点については歴史学はかなりの困難を抱えています。

「聞く所によると歴史学というのは史料を厳密に読んで中身を解釈し、かつてあった事実の復原を試みるらしい。なるほどそれは分析対象の精度に依拠するところが大きい客観性の高い学問だ。」
「いやいや私の聞いたところによると部分的にしか残っていない史料を想像力で補ったりいくつもの史料を組み合わせたりするらしい。なるほどそれは個人の想像力に大きく依存する主観性の高い学問だ。」

……困ったことにどちらもまったく正しい。
これでは歴史学の作法の中核をなすところの、歴史資料の扱い方=史料批判の方法が、一種のブラックボックスとして捉えられてしまうのも無理はないように思います。場合によっては堂々とダブルスタンダードを謳歌していると思われかねない。
実際にある程度訓練を経てみると実感として掴めてくるのですが、実のところ歴史家は自分が向き合う史料の性質に合わせて、自らの主観性を発揮する度合いをその都度調節しています。

遅塚忠躬は、歴史家と史料と事実という三者の関係についてこう述べています。
「事実と史料との距離Aが大きければ、史料記述者の解釈の介入がそれだけ大きくなるから、それを読む歴史家も記述内容に不審の念や疑惑の念を感じて距離B〔=史料と歴史家の距離:引用者注〕も大きくなり、そこに歴史家の解釈が介入する程度も大きくなる」(『史学概論』146頁)
例えば、長期間に渡る穀物価格の変動を記したような集計値史料は三者間の距離が小さく、誰かの心の動きを推察した記述史料は逆に三者間の距離が大きくなるというわけです。


史学概論史学概論
(2010/05)
遅塚 忠躬

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優れた歴史家は数多くの史料を検討し、それぞれに応じて史料批判のアプローチ・度合いを柔軟に変化させつつも、記述の総体としては主観と客観のバランスを調和させて着地させるという職人芸を見せてくれたりしますが、そこまで読み取った上で歴史学のディシプリンについてイメージを形成することを一般に求めるのはあまりにも酷でしょう。

話が最初の問いに戻ってきました。
では、歴史学は自らのディシプリン――一定の作法に基づいて結論を導き出すプロセス――の正当性を説明し、信頼を得るためにどうしたらよいのでしょうか。
自らの手続きの正当性を理解してもらい、信頼を得ることが基礎的な技能を共有した相手にしかできないとしたら。
不毛とまではいいませんが、それで仕方ないんじゃないと放り投げるのもいやです。
では、手続きの正当性を理解してもらうことを諦め、誠意を示すなどして属人的に信頼を得ればなんとかなるのでしょうか。
なんだかだましているような気分になりそうです。

今の僕には結論を出すことができません。
もやもやしたものをもやもやしたまま転がしておくことで、ひとまずペンディングとしましょう。

歴史はくりかえすのか 林健太郎「付論 戦後歴史学の課題」

『史学概論(新版)』(1970、有斐閣)所収


史学概論 (1953年) (教養全書〈第6〉)


史学概論 (教養全書)

 林健太郎の書いた「戦後歴史学の課題」という論文を読みました。林は近代ドイツ史を専門とする西洋史学者です。

 彼の書いた『史学概論』には、1953年刊行の初版と1970年に増補改訂された新版の2バージョンがあります。今回読んだ「戦後歴史学の課題」は後者に付論として付け加えられたものです。初出は1966年の雑誌『展望』。本来であれば本論を読んで感想をまとめるべきところですが、1970年の改訂に際して林がこの論文を付け加えたことの意図が気になったので、まずこちらを読んでみました。もともと単独論文だったこともあり、内容的にも完結しています。なお、雑誌初出時は異なる題名が付されていたようです。

 さて、いきなりですがこの論文は日本における「戦後歴史学」だけの話ではありません。林がここでとりあげようとしたのは、歴史学という学問の性質をめぐる議論にしばしば伴う「法則」と「個性」の対立という構図であり、その対立が時代・地域によってどのような特性を持ちつつ拡大再生産されていくのかということであるように思われます。論文としては割と長めなので、この論点について選択的にまとめていきましょう。

 林はまず日本で起きた「昭和史論争」に触れます。『昭和史』(1955年、岩波書店)は遠山茂樹ら講座派マルクス主義の立場に立つ歴史学者たちが書いた一般向けの新書で、文学者の亀井勝一郎から人間が描かれていないとの批判を受け、「昭和史論争」のきっかけとなりました。林はこの論争の根底に、歴史の底を流れる「法則」と表面にあらわれる「個別的事象」のどちらを重視すべきであるか、という歴史認識上の差異を見いだします。そして林は「昭和史論争」とほぼ同時期にヨーロッパで起きていた、アナール派をめぐる歴史学者たちの論争もまた同様の構図を持っていたと指摘します。

 アナール派は、厳密な歴史資料(=史料)分析に基づく事件史・政治史を中心としていた従来の歴史学(ランケの系譜を継ぐいわゆる史料実証主義)に対抗して生まれた学派です。彼らの方法論上の特徴は、ある特定の時代状況と社会の中に反復される構造を見いだし、それに基づいて例えば「集団的心性」のような、長期的・持続的なものごとの有り様を再現するところにあります。そしてそのいわば観測者的視点を活かして、事件だけでなく社会におけるものごとの全体的な連関性を描こうとします。そのため「全体史」「社会史」などと呼ばれることもあります。

 さすが林が慧眼なのは、この「昭和史論争」、アナール派をめぐる論争に加えて、19世紀末にドイツで巻き起こった「ランプレヒト論争」をも交えた上で、これら歴史学という学問についての論争を≪歴史の法則と個性をめぐる議論の反復≫として類比的に捉えようとしているところでしょう。「ランプレヒト論争」もまた、史料上にあらわれる個性を描くことを重視した既存の歴史学に対して、集団現象や類型に基づく法則性を捉える必要を唱えたカール・ランプレヒトが起こした論争です。林は「昭和史論争」もアナール派をめぐる論争も、「ランプレヒト論争」の経験を踏まえているのだろうかとやんわりと指摘します。

 「ランプレヒト論争」は同時代的にはランプレヒトの敗北に終わりました。ヴィンデルバント、リッケルトら当時の新カント主義派が歴史学における「個性記述」の重要性を主張したほか、ディルタイ、ジンメル、ヴェーバー、クローチェ、トレルチなども「歴史認識における主観的構想力の重要性を強調」しており、これらが史料実証主義にとって援護射撃の役割を果たしたからです。林はこれら歴史にとっての隣接諸科学が「ランプレヒト論争」において果たした役割を、アナール派がどう考えているかはよくわからないと言います。その代わり、アナール派の主張の背景に政治的な性質の欲求――フランス第三共和政とそれを支えたフランスアカデミズムがWW2においてあっけなく崩壊したことの衝撃とそれらからの訣別願望――を見いだします。そして、おそらくここが重要なのですが、アナール派のこの欲求が既存の実証史学の側(例えばゲルハルト・リッター)にはよく理解できていないために、論争が再び「法則」と「個性」の対立構図の単純な反復に陥ってしまっているのだと言うわけです。

 少し整理しなおしましょう。歴史上の「個性」を描くことと「法則」を見いだすこと、いずれを重視するかの対立が「ランプレヒト論争」でした。そしてこの論争は隣接諸科学が「歴史認識における主観的構想力の重要性を強調」して論争に参入したために「個性」重視側が優勢となって終わりました。しかしこれは単にプレイヤーの片方が勝利したということではなく、歴史認識上の変化をもたらしていると私は思います。つまり、歴史的対象の持つ「個性」と歴史的対象に内在する「法則」の対立という最初の構図に対して、歴史的対象を≪取り扱う主体の「個性」≫(=主観的構想力)を重視する認識が第3勢力として参入したと捉えるべきでしょう。そう考えると、アナール派は「個性」の積み重なりと全体的な相互連関の中に「類型」を見いだしていくわけですから、これも単なる「法則」重視の再来ではなく、別種の歴史学方法論の登場として理解されねばなりません。

 「ランプレヒト論争」の結果、このように歴史学の方法をめぐる認識上の対立構図が複雑化しているにもかかわらず、「昭和史論争」の当事者たちもアナール派をめぐる論争の当事者たちも、それを自覚しないままでいるのではないか、そしてその状態はこれからの日本の歴史学にとってよい影響を及ぼさないのではないか、という危機感を林が抱いているように私には読めました。林が収録に際して「戦後歴史学の課題」と題名を付した理由がわかるような気がします。

 このあたりまでがおおむね論文の前半にあたります。後半では、正統史学の系譜を引き継ぎつつ、アナール派の影響を受けとめて自己革新を目指すドイツ「構造史」派や、「伝統社会」と「工業社会」という区分に基づく発展段階論と社会類型論の組み合わせ理論モデルで経済成長という変革を捉えようとする「近代化論」の紹介に紙幅が裂かれています。無論このあたりも戦後日本の歴史学の流れを考える上でたいへん重要なので詳しく紹介すべきなのですが、私はもはや「ランプレヒト論争」の過程で歴史上の「個性」をめぐる認識がどう具体的に拡大深化していったのか、という疑問を抑えることができません。優先順位の問題です。そして「ランプレヒト論争」については、正統史学側の当事者であるエドワルト・マイヤーと、ヴェーバーの間で交わされた議論を収めた『歴史は科学か』(みすず書房、1965年)があることを林が教えてくれています。そしてなんと長らく品切れであったこの本は昨2011年の「書物復権」復刊企画によって復刻されており、私はこの本を既に持っているのです。読まずにはいられません。


歴史は科学か歴史は科学か
(1965/09/25)
エドワルト・マイヤー、マックス・ウェーバー 他

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 少し余談ですが、戦前~戦後に刊行された各種の『史学概論』の目次をぱらぱらと見ていると、「ランプレヒト論争」に関わっていた隣接諸科学の議論に多くの紙幅が割かれていることに気がつきます。林はあくまで1966年の時点から「ランプレヒト論争」を類比的に見ていますが、同時代日本の歴史学・隣接諸科学がこれをどう受容していたのかという問題軸もおそらくあり得るでしょう。戦前日本の官学アカデミズム史学―国史学がこういった外来の歴史哲学・歴史認識論に正面から取り組んだという印象が私にはあまりありません(無知ゆえかと思いますが)ので、そのあたりを埋めていくためにもぼちぼちと取り組んでいこうと思います。

 さて、 @kunisakamoto さんの提案で何気なくその気になってしまった遅塚忠躬『史学概論』読書会の準備というところから始まった私の「史学概論の旅」は、早くも初手からはてしなく脱線しつつあるようです。もはや着地点がさっぱりわかりませんが、どうぞ御立ち会い。


史学概論史学概論
(2010/05)
遅塚 忠躬

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