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学問分野としての歴史 マーガレット・メール『19世紀日本における歴史(学)と国家』#1

History and the State in Nineteenth-Century JapanHistory and the State in Nineteenth-Century Japan
(1998/03)
Margaret Mehl

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#1 日本における学問的伝統

 この本は近代日本における歴史学の成立を扱ったものです。英語版が刊行されておよそ15年が経ちますが、いまだに邦語の類書は存在しません。明治維新以前から日本に存在した学問の伝統と、西洋から継受した近代的な学問としての歴史学の双方に配慮の行き届いたモノグラフであり、当該分野においては今もなお重要な先行研究です。この本の第5章、学問分野としての歴史(学)が日本に成立していくまさにその過程を扱った部分をここしばらく読んでいました。きわめて大まかにではありますが、まとめていきたいと思います。

 日本では歴史を叙述することについて長い伝統があります。私たちが参照できる最古の記述資料は歴史書です。資料を集め、歴史的な事実を確定するという歴史研究の方法は徳川時代から存在していましたが、西洋歴史学のような学問分野としての歴史学の成立は19世紀の後半を待たねばなりません。

 日本における歴史学の成立に大きな役割を果たしたのは、明治政府が設置した歴史編纂機関の職員たちでした。彼らの多くは漢学の素養を持ち、「考証学」というtext critic(本文批判)の方法論を身につけていました。彼らは考証学の方法論に基づき、資料の収集と比較検討、歴史事実の確定に非常に重きを置きました。その代表者としては重野安繹の名前をあげることができます。彼らが任されていた歴史書の編纂事業においてもその特徴は明確にあらわれており、彼らは編纂業務そのものと同じぐらい、時にはそれ以上に資料の収集に力を注ぎました。できる限りの質と量を備えた資料を集め、できる限り正確に事実を確定した年代記をまず作成し、それをもとに編年体の歴史書を編纂しようと考えたのです。

 こういった彼らの姿勢は時に国学者との対立を生みました。例えば天皇家の系譜についてより厳密に事実を確定しようとすれば、天皇家の系譜の正統性について道徳観念に基づいた解釈を交えた議論をする国学者との対立は避けられませんでした。こういった対立は解決に至ることなくのちのちまで続きます。こういった経緯もあり、編纂機関の職員たちは自分たちが道徳的な偏見をもたないことを次第に強調するようになっていきます。

 彼らの興味関心は公的な業務の範囲だけにはおさまらず、私的にも歴史にまつわる会合を持つようになっていきます。業務の中で生じた疑問点を報告・相談しあったり、日本語の記述方法や、イモの歴史について報告した人もいました。特筆すべきは久米邦武の報告です。彼は資料の用い方についての綱領とでも呼ぶべきものをこの会合において発表したほか、歴史物語として広く親しまれていた「太平記」が、資料的根拠による裏づけに乏しいことを指摘しました。

 こういった主張の傾向を持つ彼らを、歴史家の大久保利謙は江戸時代の考証学の伝統から区別して「新考証学派」と呼びました。漢学の強い影響を受け、個別の事実にこだわり、公的な修史事業の重要性を強く説いたからです。先述したように、彼らはその信念に基づいて数多くの資料調査・収集をおこないました。その作業の中で、修史事業に用いる資料の分類が次第に明確になっていきます。最も大きな分類は、記述の根拠として用いられる日記や基礎文書(おそらく行政文書や統計資料などを指しています)と、参考としての軍記・戦記・物語との区別です。後者は手に入れやすいけれども、後世に作られた記録なので信頼性に欠けるというわけです。またもうひとつ強調すべきなのは、資料収集の方法です。彼らは江戸時代に収集された資料を調査したり、地方自治体に資料収集を任せるだけでは不十分と考えるようになり、自ら資料収集のために現地におもむくようになりました。そこで彼らは寺社や資料を持っていそうな個人宅を直接尋ねたり、また地方官を通じて住民に資料を持ってきてくれるよう呼びかけたりしました。そうやって集められた資料は筆写され、時には現物を借り受けて持ち帰ることもありました。

 

このような、公的な修史事業を目的とした直接的資料収集への強いこだわりは、今日に至るまで日本の歴史学に大きな影響を及ぼしているように私には思われます。近代歴史学の祖と呼ばれるランケですら、ベルリン王立図書館を初めとする文書館・図書館の所蔵史料を駆使して数多くの著作をうみだしたのですから。もちろん、これらは歴史的な諸条件の違いによるものなのであって、どちらが歴史学の方法として優れているとかそういった類の話ではありません。



 資料は国中から恐るべき規模で収集されました。それらがすべて修史事業に活用されたとは考えにくく、資料の収集それ自体が目的化していたと考えてよいでしょう。この過程を通じて、歴史書の編纂の前段階にあたる、資料の収集と資料集の編纂が大きな価値を持つものと考えられていくようになります。こういった認識はのちの「アカデミズム史学派」の思考様式に大きな影響を与えます。つまり、この段階で資料の収集と資料集の編纂に大きな力が注がれたことは、日本に独立した学問分野としての歴史学が成立するための重要な条件の一部をなしていたのです。そしてその次の重要なステップが、帝国大学に史学科が設置されたことでした。

→ #2 帝国大学における歴史学 に続く


重野安繹と久米邦武―「正史」を夢みた歴史家 (日本史リブレット人)重野安繹と久米邦武―「正史」を夢みた歴史家 (日本史リブレット人)
(2012/03)
松沢 裕作

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