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学問分野としての歴史 マーガレット・メール『19世紀日本における歴史(学)と国家』#2


History and the State in Nineteenth-Century JapanHistory and the State in Nineteenth-Century Japan
(1998/03)
Margaret Mehl

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#2 帝国大学における歴史学

 続きです。今回を受けて前回の内容にも若干書き直しを加えています。

 帝国大学(1887年までは東京大学)に史学科が設置されるのは1887年のことです。それ以前は法学科と哲学科でヨーロッパ史と日本史に関する授業がおこなわれていましたが、教師はその分野の専門家ではありませんでした。日本人は自国の歴史を学ぶべきであるという外国人教師からの提言もあり、しばしば設置は試みられましたがなかなかうまくいきません。歴史の専門家が当時の東京大学にいなかったことがその理由の一つとして考えられます。では誰が日本史を教えていたのでしょうか? 国学者です。古典講習科という組織が置かれ、そこに所属する国学者が日本文学と日本の歴史を教えていたのです。

 こういった状況の中、ドイツ人歴史学者であるルートヴィヒ・リースが帝国大学に着任し、半年後には史学科が設置されることになります。これはリースの助言によるものだろうと言われています。しかし、この段階では史学科は事実上のヨーロッパ史学科でしかありませんでした。日本史学科を設立しようとする計画はこのころ既にあったようですが、はっきりとしていません。日本史学科の設立の直接的なきっかけとなったのは、政府の歴史編纂機関(修史局)の帝国大学への移管でした。この移管に際して当時帝大総長であった渡辺洪基は、修史局の手がけてきた修史事業は科学的な方法論が欠如しているために成果を出すことができなかったのだ、と述べ、同時に、これまで修史局が集めた資料、また局員たちの知識は新しく設置される学科の財産となるだろうと述べました。この言葉通り、局員の何人かは帝大の教授となります。

このあたり、日本史学科設立計画と修史局の帝大移管の前後関係・因果関係がはっきりとしていません。日本史学科設立を望んでいた渡辺が、そのために修史局(の移管)をうまく利用した印象ですが、読むだけでは断言できません。



 修史局移管の翌年、リースが日本史学科設置の要望書を提出します。ここで注意すべきなのは、日本史学科は既存の史学科の補助的な役割を果たすものとして位置付けられていることです。日本史学における学問の基礎が確立されるまでの間は、日本史学科は史学科と一体のものとして扱われるべきものでした。リースは彼の持つ歴史学の方法をまず学生に伝え、学生たちがそれを日本史の研究に応用することを期待していたのです。

 ようやく設立された日本史学科(固有名詞としては「国史科」。「国史学」でないことに着目)ですが、その実態は混然としたものでした。まず学生が集まりません。また、修史局出身の教授だけでなく、国学者たちも相変わらず日本史を教えていました。史学・国語学・国文学といった領域の中でそれぞれ日本史が教えられていたのです。西洋史・中国史・日本史が並立した一つの学問領域として見なされるようになるのが1904年、またその三つがそれぞれ独立した学科となるのは1919年のことでした。国史科の設置は重要なトピックではありましたが、日本史学が歴史学として独立した学問分野となるための一つのステップにすぎませんでした。

 もう一つの重要なステップは、史学会の創設と機関誌『史学雑誌』の刊行でした。史学会は外国人教師、修史局員、古典講習科の国学者まで幅広い会員を有し、研究の交流と成果の発表をおこなう場となったのです。

→ #3 西洋式研究方法の習得:リース に続く

#1 日本における学問的伝統
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