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学問分野としての歴史 マーガレット・メール『19世紀日本における歴史(学)と国家』#3


History and the State in Nineteenth-Century JapanHistory and the State in Nineteenth-Century Japan
(1998/03)
Margaret Mehl

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#3 西洋式研究法の習得:ルートヴィヒ・リース

#1 日本における学問的伝統
#2 帝国大学における歴史学

 第3回です。帝国大学における史学科、国史科の設立に大きな影響を与えたのはドイツ人歴史家のリースでした。では彼はいったいどのような教育と研究をおこなっていたのでしょうか。

 明治政府の歴史編纂機関の職員たちは、かなり早い段階からヨーロッパの歴史編纂についての方法を学ぼうとしていました。リースが帝国大学にきたことで、彼らは初めてヨーロッパの方法論――より厳密に言えば、ドイツで生まれた本文批判を中核とする歴史研究の方法論――に直接触れることができました。彼らはそこからどのような利益を得たのか、また日本における修史事業にリースが与えた影響はどのようなものだったのでしょうか。

 リースはベルリン大学で歴史と地理学を学びました。ランケが創設したゼミナールの出身であり、ランケの弟子たちが継承していたランケ的歴史研究の方法論を習得しましたが、ランケの直接の教え子ではありませんでした。リース自身も講義の中でランケを「史上最も偉大な歴史家」と呼び、また史学雑誌にもランケに関する論文を投稿しています。リースがランケに敬意を抱いていたことは疑いないでしょう*。

*引退したランケの書写生をリースが勤めており、私的に親しい接触はあったとする文献もあります(林健太郎「ランケの人と学問」(世界の名著47『ランケ』所収))。ランケとリースの学問的影響関係については検討の余地がまだあるようです。



 リースは「中世イギリス議会における選挙権の歴史」という博士論文で学位を取得しています。リースの指導教官は政治史・軍事史家のハンス・デルブリュックでした。デルブリュックは特にランケ学派というわけではなく、イギリス史に強い興味を持っていたと言われています。リースが招聘された理由には諸説ありますが、ドイツ学問の評判が既に日本にも伝わっていたこと、またドイツが日本の憲法制定のモデルとなったことは特に重要でしょう。歴史の研究は国制というものを理解するため必要であると見なされていたのです。とはいえ、リースはドイツ人ですがあくまでイギリス憲政史の専門家でした。なぜ日本はドイツ人でドイツの歴史学研究法に精通したドイツ憲政史の専門家を選ばなかったのでしょうか? これについては、当時の帝国大学では英語で授業がなされていたので、英語に精通した教員が求められたのではないか、と著者は推測しています。リースは日本で15年間を過ごし、帝国大学の他にも慶應義塾大学やドイツ東洋文化協会などで講義を持ちました。

 リースは帝国大学で何を教えたのでしょうか。『歴史学方法論』『全世界史』『全世界史概観』『イギリス憲政史』といった講義録が残されています。リースは歴史研究が科学的な性格を持っていることを強調し、歴史家の方法論や補助的な学問分野について、また史料批判の方法論にも言及しました。歴史叙述の分類もしています。それに対して歴史哲学は導入で簡単に述べる程度でした。リースはランケを引用して国家間関係(特にヨーロッパの)について述べる一方、植民地帝国やアメリカ合衆国については簡単に述べるにとどまりました。彼の専門である『イギリス憲政史』では、憲政史を単なる法体系の歴史ではなく、政治と社会体系の歴史として捉えようとする広い枠組を提示しました。リースの講義は日本の学生にも理解しやすかったと言われています。とはいえ、アッシリアとバビロニアの古代文化のような題材は、日本の学生にはさすがになじみの薄いものだったようです(「どうもピンときませんでしたよ」、とは教え子たちの回想の言葉)。

 リースは講義の他にゼミも開いており、そこではアメリカ独立宣言の文言やジョン・ロック、ジェファーソンの演説などが題材として読まれていました。本文批判の方法は、日本語史料を用いて教えられました。編纂機関が収集した資料が活用されたようです。題材のひとつは島原の乱でした。リースは原文書の利用を許してくれた重野と、それを訳してくれた学生にお礼の言葉を残しています。そしてリース自身も、ベルリン大学で身につけた方法論と日本の史料を組み合わせて16~17世紀の日欧関係史を研究していました。

 リースの学生の多くが日本史のテーマで卒業論文を書きました。ヨーロッパ史を専攻するものも含めてです。リースの同僚であった坪井久馬三も学生にそう勧めていました。彼はヨーロッパ史について論文を書いても、ヨーロッパの歴史叙述の要約にしかならないと考えていたのです。リースの教え子たちはのちにリースの後を継いだだけでなく、中国史、日本史などのポストをも占めるようになり、また歴史編纂機関でもリースの教え子たちが要職を占めるようになっていきます。

 帝国大学での15年にわたる職務を終え、ドイツに帰国したリースは教育と研究の公刊に従事しました。リースの業績はドイツではまもなく忘れられてしまいましたが、日本では今もなお彼の果たした役割の大きさが語り継がれています。リースは日本と日本人学生に心を開きましたが、それは彼が若く、海外経験も豊富だったからかもしれません。リースは西洋の学問が優れたものであり、ヨーロッパの歴史は日本人学生にとっても重要であると信じていましたが(アッシリアやバビロニアの古代文化さえも!)、教え子には日本の歴史を研究するよう勧め、彼自身も日本についての歴史研究をおこないました。リースは帝国大学に日本史学という研究分野が形成されることに寄与し、彼の教え子たちは帝国大学をや私立大学で教鞭を執るようになりました。

 とはいっても、やはり日本の近代歴史学に対するリースの貢献は過大評価され気味です。リースは雇用者の意図を越えて独自に何かを為したわけではありません。地位も低く、日本人教授のように講座を与えられることはありませんでした。また、リースの影響を考える上でも、西洋史と日本史が元来別々の起源を持っていることを踏まえて、この二つは区別して考えねばなりません。長きにわたり、日本史は徳川時代に教育を受けた世代とその教え子たちによって教えられていました。重野安繹たちの後を継いだのは古典講習科の卒業生でした。リースの教え子たちはいわば第三世代になってようやく影響力を持ち始めたのです。もちろん重野安繹や久米邦武はリースとその方法論に接する機会がありましたが、彼らはリースよりも年長であり、地位としても既にその高みにありました。たとえ彼らがリースの教えを受けようと思っても、学部生たちと机を並べて講義を受けるわけには行かなかったでしょう。リースは大きないくつかの貢献をしましたが、全体で見れば、修史事業はリースが日本に来る20年前からずっと同じやり方で続けられていたのです。


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