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「歴史の世紀」をたどる #2 G.P.グーチ『十九世紀の歴史と歴史家たち』第3章

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「歴史の世紀」をたどる #2 G.P.グーチ『十九世紀の歴史と歴史家たち』第3章

 ニーブールは古典への豊かな造詣、文献学の知識、そして官僚・政治家としての経験に基づいた政治への深い洞察、これらの総合の上に、かつてない『ローマ史』を描くことができました。ほかの著述家たちの描くローマ史がリヴィウスの描くローマ史を越えられなかったなかにあって、なぜニーブールがこのような偉業をなしえたのでしょうか。もちろん、彼個人の能力に負うところも大きかったでしょう。しかしニーブールを突き動かしたものがもう一つあります。それは同時代に進んでいた、文献学と考古学の革新でした。ホメロスの詩の起源と成立過程が口承文芸と著述の関係性の中で再解釈され、その成果がさらに考古学を刺激する。この循環がニーブールの想像力に活力を与え、詩として残されたものを糸口としてローマの歴史を再解釈する、という彼の発想を強く駆動したのです。

 ギリシア文明への関心はルネサンス期に活発化して以後しばらく低調にあり、オランダを拠点とした文献学がその灯を絶やさずに守っているような状態でした。しかし18世紀半ばにポンペイが再発見されてその発掘が進みはじめると、ギリシア文明への興味関心、そして古典古代考古学全体が次第に活力を取り戻しはじめます。その拠点の一つとなったのがドイツのゲッティンゲン大学でした。古代世界の文学や芸術品・遺物を用いた文献学の演習がはじまり、次第に古典古代の生活の全領域が研究の対象となっていきます。中でもC.G.ハイネによる古典文献学の講義は古代の遺物・制度・神話・宗教などを幅広く扱い、それらを歴史的に理解することに大きく貢献しました。ハイネの講義からは数多くの弟子たちが育っていきます。

 ところが、ハイネの最大の弟子はハイネに学ぶところがあまりありませんでした。フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ(1759-1824)です。ヴォルフはハイネの講義に満足することができませんでした。ヴォルフはゲッティンゲンを去ってハレ大学に教職を獲得し、古典文献学に没頭します。その成果が『ホメロス序説』でした。ヴォルフはイリアスの手稿と版本の比較研究をおこない、イリアスが複数の吟唱詩人の創作物であり、数世紀にわたる口承伝承を経たのちにようやく著述として書きおろされて成立したものである、との確信を得るに至ったのです。ヴォルフの議論は大きな論争を招き、主張の一部は今日既に覆されていますが、叙事詩の性質をめぐる研究の学問水準を大きく引き上げました。

 ヴォルフの弟子の一人、A.ベックがギリシア文献学の分野でヴォルフに続きます。1806年にハイデルベルク大学の教授職を得たベックはプラトンと悲劇について、またピンダロスの詩の韻律についての研究で大きな業績を上げて1810年にベルリン大学に移り(ニーブールが移ったのと同じ年です!)、そこで56年間にわたって古典文献学の講義を続けました。ベックの最大の功績は、それまでほとんど注目されていなかったギリシアの経済生活を克明に再構築したことでしょう。その著作は『アテネ人の財政』として有名です。1817年に刊行されたこの本はニーブールに捧げられており、ニーブールがローマに対してなしたのと同じことをアテネに対してなしとげた、とグーチは評価しています。「古典文献学を歴史科学に変化させたのはベックの最高の功績である」とまで書いています。

 ベックにはもう一つ、大きな功績があります。それはプロイセンのアカデミーを動員してギリシア碑文の収集を徹底的に推し進めたことでした。古代ギリシアから東ローマ帝国の成立までに対象時期を限り、4年間で終わるであろうとの見通しではじめられたこのプロジェクトには、当初予定の10倍を越える金額が投入され、グーチが本書を執筆していた時点でもまだ続いていました*。ベックたちのつくりあげた『ギリシア碑文集成』と、それに依拠した研究は、いくつかの欠点を持ち、激しい批判を呼びつつも、文献学の成果が他分野の研究に寄与しうること、また原史料からの複写の重要性を世に知らしめる大きな成果を残しました。「ベックはランケが近代ヨーロッパの歴史において占めていると似た地位を古典研究の上において占めている」、とはグーチによる最大級の賛辞でしょう。

*史料編纂所の果てしなき史料収集を連想せずにはいられません



 ベックの弟子からも偉大な歴史家が生まれました。オトフリード・ミュラーです。ブレスラウ大学で哲学と古代史を修めたミュラーは、1815年に18歳でベルリン大学のベックに師事し、古典文献学を学びました。ミュラーはそれらを融合させて神話学・歴史学に挑んでいきます。堅実なベックと、「思索的な問題に魅力を感じ大胆な概括を喜ぶ創造的、独創的な心の持主」であったミュラーは幸福な師弟関係を結び、ミュラーは「壁を飛び越える」とベックにいさめられることもあったほどに旺盛な研究・著述活動に打ち込みます。ミュラーは神話・伝説が内包する地方的な要素を頼りに、ギリシア民族の起源をたどっていく中で歴史的なものと親和的なものをより分けていくことができると信じていました。ギリシアの神話・伝説の中に特定の民族の精神の起源を読み込みすぎたという点でミュラーの研究を批判することはできますが、単なるアテネの歴史でなく、ギリシア史の叙述に先鞭をつけたという意味で、大きな足跡を残しています。

 ミュラーは1840年、調査に向かったデルフィの地で熱病に倒れ、アテネで息を引き取りました。ミュラーの弟子たち、またミュラーの影響を受けた学者たちが、その遺志を継いで法制史・哲学史・天文学などの様々な分野を切り開いていくことになります。
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