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口ごもる誠実さ/大戸千之『歴史と事実』


歴史と事実: ポストモダンの歴史学批判をこえて (学術選書)歴史と事実: ポストモダンの歴史学批判をこえて (学術選書)
(2012/11/23)
大戸 千之

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 グーチも読んだりまとめたり準備はしてるんですけど脱線ばかりですみませんね。でも最短コースしかだめって思っちゃうとしんどいよね。ていうか途中で面白いもの見つけたらとりあえずそっちに転がるでしょう? というわけで今回は大戸千之『歴史と事実』――ポストモダンの歴史学批判をこえて――です。

 学問としての歴史学はどういう風にできてきたのか、ということを僕は追っかけているわけでして、当然ながらその過程では「歴史学って何する/何のためにする学問なんだっけ」という問いはそこら中に転がっています。というか星の数ほどの先哲がその根源的な問いに唸りながらも実際に手と足を頭を酷使して、史料を使って、歴史を記述し、僕たちに様々な場所・時代の歴史を伝え、更新してきたわけです。そうやって積みあげられてきた歴史学の歴史の中でも、とりわけ強烈に歴史学者を悩ませたものとして、いわゆるポストモダンの立場からの歴史学批判というものがありました。簡単に言うと、近代に成立した学問としての歴史学が言うような、「客観的な歴史叙述」、つまりかつて存在した事実をありのままに再現して描くような歴史叙述というものはそもそも不可能なんじゃないの、という類の批判です。

 この批判は歴史学者、中でも史料にきっちり即して解釈を立ちあげ、広い範囲での共通理解を積みあげながら過去の再構築を目指していく方法をとる学風の人々(「実証史学」といいます)をいたく悩ませました。彼らは自分たちのいとなみについて、可能な限り正確かつ客観的なやり方でもって、過去に起こった出来事を把握し、描こうと努めている、という風に説明してきたからです。
 
 批判を受けて積極的に反論を展開した人も、衝撃を受けて手をとめてしまった人もいたようです。もっともベーシックな反論は次のようなものであったと僕は思います。歴史学者のいとなみの最も大きなよりどころであるところの「史料にきっちり即して解釈を立ちあげ」るという作業それ自体は、訓練を経て身につくある種の技能であり、そこには明確に言語化しがたいとしてもなにがしかのメカニズムが存在している。そのメカニズムの駆動を実地で体験してみれば、そのメカニズムから生み出される解釈には自ずから幅があることはわかる。過去に関する完全な証拠を手に入れることはできないからと言って、解釈は何でもありということにはならない。

 個人的にはこの反論はもっともだと思います。しかしこれは大事なメカニズムをブラックボックスのまま提示しているわけですから、そのメカニズムを内面化したことのない相手側がそうそう納得するものではない。その結果、なんとなく議論が噛み合わないまま熱が冷めて事態が沈静化しているのが現状だと著者は言います。しかし。「これは、曖昧なままにしておくべきではない問題であろう」(7頁)。そういった著者はどうするのか。次の問いに立ち戻ります。

《そもそも、歴史を「書く」とはどういう行為だっただろうか。彼らが批判するような、ありのままに過去の事実を再現して描くなどということをそもそも歴史学は目指していただろうか》

 批判に即座に反論するのでもなく、うちひしがれるのでもない。まず口ごもり、《私は相手が批判するような私であっただろうか》と自問する。口ごもる誠実さ、とでも呼びたくなる姿勢だと思います。ここから、古代ギリシアを専門とする著者は、「歴史を書く」とはどういうことであったか、それを古代ギリシアの歴史家たちをたどりながら確認していきます。章立ては以下の通り。

序章 今何が問題なのか――ポストモダニズムと歴史学――
第1章 歴史叙述の起源
第2章 ヘロドトス――事実とは情報である――
第3章 トゥキュディデス――事実とは解釈である――
第4章 ポリュビオス――事実の正確な理解を――
第5章 「循環史観」という神話
第6章 ランケの歴史学とその後――事実とは史料である――
終章 何が可能か

 この本の最大の特徴は「歴史を記録する」ことと「歴史を書く」ことを明確に峻別しているところです。後者には、「書く人間の主体的な問題意識と判断に立った説明」(20頁)が見いだされる。この視点から古代の歴史認識をたどると、おおむね次のような変遷が読み取れると言ってよいでしょう。

・神話や叙事詩(「イリアス」「オデュッセイア」)が歴史として信じられていた時代

・神話・叙事詩への懐疑(ヘシオドス)

・同時代の情報を吟味し、伝えようとする主体的な意思の発生(ヘロドトス)

・ヘロドトス+見聞きしたものを解釈・再構築して「語る」という行為の自覚的利用(トゥキュディデス)

・正確な事実へのこだわり、またそこから政治にとって有用な教訓を導き出すためには経験に裏打ちされた判断と洞察が必要であることの強調(ポリュビオス)

その上で、ポリュビオスの到達点が「現実に向けての問題をかかげ、歴史的事実のなかに問題の根源を探り、そのうえで何を考えることが重要かを語ろうとする、そのようなギリシアの歴史家のよき伝統」(206頁)と評価されることになります。あえて読み込めば、目的と方法論、そして方法論を身につけるための訓練の作法、この3つが意識されているという意味で、ポリュビオスが現在の歴史学にもっとも近しいものとしての評価を受けているように思います。

 歴史を「記録する」/「書く」ことを峻別して、歴史学のあゆみをたどろうとすること。この道筋は著者独自の、というか古代を対象とする史家だからこそ辿り得たものなのかもしれません。王や国家の記録が史官のような専門の役人によってのみ連綿と蓄積されるような光景は、また大きな事件を直接経験し、目にしたもののみがそれについて語りうるような光景は、誰もが誰かについての歴史を《記録しつつ書く》ことをおこなっている現在からははてしなく遠ざかってしまいました。

 著者の結論は平板です。
「「ありのままの事実を語る」とは、もともと「根拠のない作りごとは語らない」という意味であり、「史料的な裏づけをしながら語る」というのが本意であった」(247頁)
しかし、この平板な認識すら踏まえられていない/誤解されているのだとしたら、改めて歴史家がここに立ち戻り、その意図を説き続けることの意味は大きいでしょう。この軸足を再確認し続けることで、歴史家は文学やフィクションとも粘り強く関係を作りあげていくことができる。口ごもる誠実さは、仕事で相手を振り払う苛烈さと組み合わさって、強い。ガツンときますよ。
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