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立身出世につながらなくても勉強しますか? 前田勉『江戸の読書会』1,2章


江戸の読書会 (平凡社選書)江戸の読書会 (平凡社選書)
(2012/10/17)
前田 勉

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前田勉『江戸の読書会』(平凡社選書、2012年)1-106頁。


 読書会という営みが江戸時代から幕末にかけての日本において、いかなる思想史的役割を持ったのかを探ろうとする本の最初の2章を読みました。

 第一章:会読の形態と原理
 第二章:会読の創始

 「江戸時代になぜ儒学は学ばれたのか」という問いかけから叙述ははじまります。科挙という制度があり、学問が立身出世・身分的上昇に直結していた中国や韓国とは異なり、武士内部の身分の流動性が比較的低かった日本において、儒学があれほどまでに熱心に学ばれた理由が謎だというわけです。丸山真男をはじめとしてこれまで採用されてきた説明の論理は、身分制社会だからこそ身分秩序を正当化する儒学が体制教学として広く受容されたというものです。しかしこの説明に対しては、古くは津田左右吉、今では渡辺浩が指摘するような、儒学の理念と現実の日本の近世社会の不適合が対置されます。

 この2種類の理解を踏まえて改めて考えた場合、どのような説明ができるのか。少なくとも、本気で儒学を通じて聖人を目指したり、わずかなりとはいえ存在した政治的栄達のチャンスに賭けたりしたものは実在したのだ、という説明はできます。しかし本書はそういった、儒学の思想そのものとそれが同時代に与えた影響から説明していくようなアプローチとは別の方法をとり、儒学が学ばれた空間の性質、それに着目します。現実世界を支配する身分制度から一時的に開放され、参加者が書物の内容と解釈について自由に学問的な討論を繰り広げられる場としての「読書会」。その魅力がいかに近世人を捉えたのか。この問いが本書を通底していきます。

 当時には三つの学習方法がありました。素読・講釈・会読です。素読がいわゆる「子曰わく」。訓読と暗唱です。講釈は先生による口頭の一斉授業。そして会読。今でいうと輪読形式のゼミを想定すればわかりやすいでしょう。少人数で毎回報告者を立て、報告を踏まえて全員で討論をおこなう。この会読形式が必然的に備える参加者の相互性と対等性、そして結社性こそが、政治的な公共性を成立させる基盤となったと著者はいいます。従来は素読・講釈という学習方法が重視されていたことに対し、会読が近世において果たした役割を著者は重視しています。会読の性質・効用は三つありました。一つ目が他者との議論を通じた自己修養。二つ目が様々な知見を集め、自己を相対化することによる知の活性化。三つ目がその「遊び」性。ゲームのルールを定め、その中で普段の関係性とは自由な立場で平等に討論ができる。この「遊び」性こそが人々を捉えたのではないか。この理解が著者のアプローチとなっていきます。

 ここまで読んだところでは、「遊び」性が人々の心を捉えて流行るというのはわりかしわかるのですけども(僕もゼミとか読書会の議論は好きですし)、「遊び」を「学問」でわざわざやらなければいけない理由というのはなんなのかなぁという気がします。いや「遊び」を「遊び」で普段からやってたら体裁がつかんだろというのはその通りなんですが。
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