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機械はたぶん競争とかしない。  『機械との競争』


機械との競争機械との競争
(2013/02/07)
エリク・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー 他

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エリック・ブリニョルフソン/アンドリュー・マカフィー『機械との競争』(日経BP社)

を読んだ。とても雑な本だった。
山形浩生の言及に付け加えることがなにもない。

人間が対峙すべきなのは機械を運用する経営の枠組であって機械ではないはずなのだった。

本棚に戻す前に醜悪な帯を捨ててから装丁を三度ほど撫でた。

悩まないのも芸のうち 『人文学への接近法 西洋史を学ぶ』を読む


人文学への接近法 ―西洋史を学ぶ人文学への接近法 ―西洋史を学ぶ
(2010/06/25)
服部 良久、 他

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 『人文学への接近法 西洋史を学ぶ』(京都大学学術出版会、2010年)
を読んだ。大学に入学して専門課程で西洋史を学ぼうかどうしようか迷っている学生をはじめ、とにかく西洋史に興味がある(ようになってくれるかもしれない)人たちに向けて西洋史(を学ぶ)とはどういうことかを説明するような本である。歴史学の中の西洋史の位置づけから留学体験記、キャリアパス、学習方法と過不足なくまとめられていて便利だと思う。なにより至れり尽くせりの西洋史文献案内がすばらしい。

 しかしどっこい、実は研究者こそこういう本を読んでおくべきだ。「○○ってなんの役に立つの?」という無邪気で残酷なテンプレ質問へのひとつの模範解答がここに用意されている。こういうテンプレ質問に個々の研究者がたびたび正直に向き合い、円滑に答えを紡ぎ出せなかったり相手に理解してもらえなかったりして苦しみ、その過程を経て懐の深い研究者として成熟していただくのが麗しいことだと思わないわけでもないが、徒労に終わることも少なくないだろう。テンプレにテンプレで回答する厚顔さも時にはなければいけない。

みんな「と」勉強する? みんな「で」勉強する? 前田勉『江戸の読書会』後半


江戸の読書会 (平凡社選書)江戸の読書会 (平凡社選書)
(2012/10/17)
前田 勉

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前田勉『江戸の読書会』(平凡社選書、2012年)、107-391頁(終わり)。

 読書会という営みが江戸時代から幕末にかけての日本において、いかなる思想史的役割を持ったのかを探ろうとする本の中盤以降を読みました。

第三章:蘭学と国学
第四章:藩校と私塾
第五章:会読の変貌
第六章:会読の終焉

 読書会=会読が備える「遊び」性が近世の人々の心を捉え、儒学の興隆の一因となったこと、またこの会読が準備した政治的公共圏が西欧学問の受容、幕末から明治維新への政治的議論の活発化を支えたというのがこの本の基本的なテーゼだと言えます。3章以降では種々の学問の思想内容と学習空間において会読がいかに組み込まれたかの実例が紹介されるとともに、それらの出身者が幕末から明治維新において抜擢され、政治的問題に取り組む際に会読の精神を活かしていく様子が描かれています。この辺の繋げ方はうまいですね。

 儒学の他にも蘭学と国学、この二つの重要な学問もまた会読を導入します。もちろんこれらの学問は素養を共有する人々が学んでいたので手法も共有されるわけです。蘭学については読解の困難な書物を共同で翻訳するという営みの「パズルを解く」ような「遊び」性が、国学については特に宣長を事例に、中世王朝人の「もののあはれ」を感得する「王朝人ごっこ」的な性格が取りあげられ、そのようにして現実から離れることに由来してうまれる「自由な雰囲気」と会読の自由闊達さの連動が、指摘されているように思われます。蘭学と国学については、儒学に比べて会読を通じて「真理の解明」を指向する傾向が強かったという感じの書き方ですが、そうなのかな。このあたりは既に〈いいもの〉であることが前提されているものにいかに近づくかが問題とされている学問と、何が〈いいもの〉かを見つけようとする学問の違いに起因するんでしょうか。新しいものに触れるってのはこういう心の動きを活性化させそうな感じはします。

 学習空間としての藩校と私塾。会読が持つ、現実の身分制度からの一時的開放、という性質がそれぞれにおいてどう作用したのかという比較は面白いですね。私塾は競争原理も盛んに導入されて自由闊達、一方で藩校は既存の身分秩序から完全に離れることはできずとも、それなりに自由な討論の空間を準備し、また競争とは別の「虚心」、つまり他者の意見を受け入れる精神を、官僚となるべき人材が会読における他者との討論を通じて身につける場として機能した、という指摘は膝を打つものであります。

 藩政改革や対外危機の昂進のなかで、特に藩校には有用な人材を育成する機関としての役割が求められるようになり、同時に自由闊達な議論の場としての性格は、政治結社的な「徒党」の巣窟としての危険性が見いだされるようになります。この会読が持つ徒党性の問題を突破するためには、徒党を組むことを正当化する論理を生み出さなければなりません。その事例の一つが後期水戸学でした。藩主の「言路洞開政策」によって藩士の意見を政治に反映させることが制度化されていた水戸藩では、藩士が会読の場で政治的な議論をすることが許容されていました。一方、この枠組は藩主に意見を取り立てられることに関して激しい競争を喚起するため、党派間の対立を招くというデメリットもありました。確かに水戸藩の内訌は激越でした。こういった欠点を乗り越えるために、例えば横井小楠は議論の公共性をより高めることを指向し、それを制度的に支えるものとしてのモデルを西欧の議会制度に見いだしていきます。

 このように近世の思想空間に大きな影響を与えた会読という手法は明治期においても漢学塾、藩校で続いており、「学制」発布後の近代教育の中でも速やかに廃れたわけではありませんでした。しかし、小学校では私塾・藩校のような参加者のレベルを保つことは残念ながら不可能であり、また画一的な人材の養成(特に教員養成)には会読がなじまなかったことから、公教育の場から会読は姿を消してゆきます。一方、民権運動のような結社においては会読・討論が盛んにおこなわれました。

 オチとしては、明治になると学問が立身出世と結びつくようになり、「遊び」性が損なわれたために会読も廃れていく、という書き方になっています。

 会読という営みが、そこで取り扱われる思想内容と連動しつつ、人の思考様式の形成に与えた影響を実例を豊富に引きながら描いており、全体的にたいへん面白い本であったと思います。ただ、オチの部分はあんまり腑に落ちないですね。かなりハイレベルな私塾や藩校での会読は、学制後の初等・中等教育よりは、むしろアカデミックな学問が成立してからの高等教育の中での講座やゼミ、勉強会と比較されるべきものなのではないでしょうか。明治中期の高等学校や大学のゼミってどんなんだったのかなぁ。リースのゼミ生の回顧の話とかにはマーガレット・メールさんの本を扱ったときに若干触れましたけども、史学史的なものを追っていくなかでそういうものにも気を配って行きたいと思います。

立身出世につながらなくても勉強しますか? 前田勉『江戸の読書会』1,2章


江戸の読書会 (平凡社選書)江戸の読書会 (平凡社選書)
(2012/10/17)
前田 勉

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前田勉『江戸の読書会』(平凡社選書、2012年)1-106頁。


 読書会という営みが江戸時代から幕末にかけての日本において、いかなる思想史的役割を持ったのかを探ろうとする本の最初の2章を読みました。

 第一章:会読の形態と原理
 第二章:会読の創始

 「江戸時代になぜ儒学は学ばれたのか」という問いかけから叙述ははじまります。科挙という制度があり、学問が立身出世・身分的上昇に直結していた中国や韓国とは異なり、武士内部の身分の流動性が比較的低かった日本において、儒学があれほどまでに熱心に学ばれた理由が謎だというわけです。丸山真男をはじめとしてこれまで採用されてきた説明の論理は、身分制社会だからこそ身分秩序を正当化する儒学が体制教学として広く受容されたというものです。しかしこの説明に対しては、古くは津田左右吉、今では渡辺浩が指摘するような、儒学の理念と現実の日本の近世社会の不適合が対置されます。

 この2種類の理解を踏まえて改めて考えた場合、どのような説明ができるのか。少なくとも、本気で儒学を通じて聖人を目指したり、わずかなりとはいえ存在した政治的栄達のチャンスに賭けたりしたものは実在したのだ、という説明はできます。しかし本書はそういった、儒学の思想そのものとそれが同時代に与えた影響から説明していくようなアプローチとは別の方法をとり、儒学が学ばれた空間の性質、それに着目します。現実世界を支配する身分制度から一時的に開放され、参加者が書物の内容と解釈について自由に学問的な討論を繰り広げられる場としての「読書会」。その魅力がいかに近世人を捉えたのか。この問いが本書を通底していきます。

 当時には三つの学習方法がありました。素読・講釈・会読です。素読がいわゆる「子曰わく」。訓読と暗唱です。講釈は先生による口頭の一斉授業。そして会読。今でいうと輪読形式のゼミを想定すればわかりやすいでしょう。少人数で毎回報告者を立て、報告を踏まえて全員で討論をおこなう。この会読形式が必然的に備える参加者の相互性と対等性、そして結社性こそが、政治的な公共性を成立させる基盤となったと著者はいいます。従来は素読・講釈という学習方法が重視されていたことに対し、会読が近世において果たした役割を著者は重視しています。会読の性質・効用は三つありました。一つ目が他者との議論を通じた自己修養。二つ目が様々な知見を集め、自己を相対化することによる知の活性化。三つ目がその「遊び」性。ゲームのルールを定め、その中で普段の関係性とは自由な立場で平等に討論ができる。この「遊び」性こそが人々を捉えたのではないか。この理解が著者のアプローチとなっていきます。

 ここまで読んだところでは、「遊び」性が人々の心を捉えて流行るというのはわりかしわかるのですけども(僕もゼミとか読書会の議論は好きですし)、「遊び」を「学問」でわざわざやらなければいけない理由というのはなんなのかなぁという気がします。いや「遊び」を「遊び」で普段からやってたら体裁がつかんだろというのはその通りなんですが。

『捏造される歴史』を読みました


捏造される歴史捏造される歴史
(2012/01/25)
ロナルド・H. フリッツェ

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 タイトルと内容説明に興味を惹かれて読みました。

 もう記憶が薄れてしまった方も多いかもしれませんが、かつて大騒動となった考古学における発掘物捏造の話かなとか、フィクション作品内部における歴史構築やそれを愛好する人たちの話かな(ガンダムやFSSみたいな)とか、ストレートに歴史修正主義論争の話かなとか、タイトルから連想するものは人それぞれかと思います。

 簡単に言ってしまえばこの本は、何らかの目的のために「歴史」が恣意的に利用された事例を集めたものです。何らかの主張を権威づけたり、正当化するために使われる一種の《でっちあげの歴史》(本論中では「疑似歴史」と呼ばれています)が、どのような手続きで作られ、どういった環境のもとで受容されるのかといった具体例がこれでもかこれでもかと集められています。売らんかなの本で取り扱われる古代超文明。人種差別主義者が聖書の記述を自分の主張に都合がいいように解釈した結果生まれた創造的すぎる地球創造と人類の歴史。西洋中心主義に腹を据えかねた学者が既存のアカデミアに叩きつけた挑戦状としての新しい古代史観。などなど。それぞれの《でっちあげの歴史》そのものの内容紹介があまりにも詳しすぎてうんざりしてきたり、集めているだけで特に全体的な分析はなかったり、と脱力する点がないわけでもありませんが、著者のフリッツェは現職の歴史学教授。歴史がぞんざいな手つきで扱われることそれ自体にフリッツェが腹を立てている様子が文章の端々から読み取れますから、その意味ではフリッツェの憤りをストレートに反映したとても真摯な本です。

 取り上げられているいくつもの《でっちあげの歴史》は、それを生み出す人間の想像力と妄想力のたくましさを感じさせるとともに、そういったものを総動員してでも自らの営みに意味づけをしながら生きていかねばならない環境に置かれた人々が存在することをあきらかにします(売らんかなのでっちあげはさておき)。単に「捏造される歴史」と断罪することのできない難しさがここにはあります。フリッツェが振りあげた拳をおろしきれないままでいるような印象を読後に受けるのもそのためでしょう。

 気になったことと面白かったことを一つずつあげておきましょう。
 本論中に何度も出てくる「疑似歴史」という訳語が最後までしっくりと来ませんでした。この本の原題は
Invented Knowledge :False History,Fake Science and Pseudo-religions
ですから、素直に戻すと『捏造される知 - 偽史・疑似科学・いかさま宗教』です。この"False History"に訳者は「疑似歴史」という訳語を当てているようです。「疑似科学」という呼び方には問題がありません。科学的かそうでないかということは、実験による検証や、また実験そのものの作法といった技術的な基準で線引きができますから、「疑似科学」≒《科学のように見えるけどそうでないもの》を括り出すことができます。では「疑似歴史」はどうでしょうか? 《歴史のように見えるけどそうでないもの》とはいったいなんなのでしょうか? 「疑似歴史」がしっくり来ない理由はここにあります。おそらく「疑似歴史学」ならよかったのです。学問に作法がある限り、歴史学と疑似歴史学は判別可能です。しかしこれまでにも書いてきたとおり、この本が扱ってきたのは学問の作法に関する話ではなく、あくまでも《内容的には大変突飛であるにもかかわらず、特定の人々が「これこそ正しい歴史である」と主張している、歴史についての語り》です。歴史学には学問の作法がありますが、歴史学が研究の対象とする歴史そのものは歴史家による構築物、つまり歴史像として描き出され再現されることをどうしても免れられません。そうである限りにおいて、《まともな歴史像》と《突飛な歴史像》は明白に判別可能ですが歴史像としてはシームレスに同一平面上に在るものだと僕は思います。こういった考えから、本書が言うところの"False History"には、「疑似歴史」ではなく、《何らかの目的のためにつくりだされた歴史像》というニュアンスを込めて、《でっちあげの歴史》、ただこれでは語呂が悪いので《偽史》とでもして欲しかったなと個人的には思うところです。

 あとは面白かったエピソードをあげましょう。第5章に、極地を覆う重い氷塊によって地球の極点が移動して天変地異を引き起こす、という学説を唱えるアメリカの学者が出てきます。地球規模で起こる大災害を防ぐために、彼が提唱した解決法とは? それは原子爆弾で南極の氷を全部とかしてしまうというものでした。著者のフリッツェはもしこれが実行されていたら「罪のないペンギンの群れにどのような災害がおよんだかは想像もつかない」と茶化し半分に書いていますが、学説自体はともかく、この解決法は説が唱えられた1970年代にあっては割合突飛でもなかったのだろうと思います。先日、金山浩司さんが電通大での講義中で、ソヴィエトが核爆弾を用いた大規模な環境改造計画を立案していたことをとりあげ、ソヴィエトにおける科学技術・核技術信奉の一例として紹介していましたが、冷戦の相手国であるアメリカでも民間の学者が同じようなことを提唱していたことになります。
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higegeschichte

Author:higegeschichte
ワッショイデース
http://higegeschichte.tumblr.com/

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