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消費文化史研究の見取り図 草光俊雄「消費社会の成立と政治文化」


欲望と消費の系譜 (消費文化史)欲望と消費の系譜 (消費文化史)
(2014/07/28)
ジョン・スタイルズ、ジョン・ブリューア 他

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・草光俊雄「消費社会の成立と政治文化」(草光俊雄・眞嶋史叙監修『欲望と消費の系譜』、NTT出版、2014年、3-23頁)

 読書会をするので自分のための読書メモとして要約を残しておく。必ずしも会のためのレジュメではない。
 
 〔この章は本書を第1巻として新たにはじまった「シリーズ消費文化史」のコンセプトを説明すると同時に、本書に収められている他4本の論文の研究史上の布置を説明する役割も担っている。〕

 30年ほど前から、歴史学においても消費文化についての研究が本格的におこなわれるようになった。この潮流は経済史、社会史、またオーソドックスな政治史、思想史の分野にも認められる。経済史を例に挙げると、これまでは「生産」という観点から様々な研究がなされていた。ここに「消費」の観点を導入することに大きく寄与したのはプロト工業化論と呼ばれる学説であった。プロト工業化論自体は消費そのものを分析しないけれども、遠隔地交易と市場に投入される商品生産ネットワークの形成、またその商品を生産する地域の農業との関係を組み込んだ理論的枠組みを持っており、これが消費の側面を強く意識した生産流通の研究を生み出すことに貢献したのである。消費社会の形成・成立の劃期についてははじめ17世紀とされ、のちに18世紀とする説が主流となった。
 消費行為は経済的行為として現れるが、その背後には文化的要因が存在する。この要因を解明することで、経済だけでなく、政治、社会、文化的な行動原理をも明らかにすることができると考えられる。この点は従来の歴史学の手薄な部分であった。この種の研究を進めることによって、権力の構成要素として富が機能するだけでなく、ある一定の価値観に従って消費をおこなう振る舞いそれ自体が政治的力の表現として機能することを指摘できる。たとえば「ポライト」のような、社会的・文化的規範を表現する言葉が、政治や経済的な力を表現する具体的な言葉に転化していくというプロセスは、固定的な身分社会の崩壊と流動的な社会への転換がおこなわれたことを示すであろう。

 私人が経済活動をおこない、そこで得た財産を消費のために用いたとしても、結果的に社会全体が繁栄すればそれも一つの「徳〔ヴァーチュー〕」である、という考え方が市民権を獲得したのは18世紀イギリスにおいてである。こういった価値観に支えられた社会の成立を「商業革命」「消費革命」などと呼ぶ。これは交易を国家の富の増大として重要視する「重商主義政策」とその結果の経済成長によってもたらされたものであった。こういった変化はイギリス以外の国でも起きており、むしろイギリスは遅れて参入したほどであるが、やがてもっとも強力な推進国となった。
 消費の特性を捉えるに当たって用いられる分析概念の一つが「顕示的消費〔コンスピキュアス・コンサンプション〕」である。「顕示的消費」とは富の所有を他者に認めさせるためにおこなう消費活動である。「顕示的消費」、またそれを担う階層が形成した商業社会を挑発的な口ぶりで礼賛したのがオランダ出身の医師、バーナード・マンデヴィルである。彼は著書『蜂の寓話』に「私人の悪徳、公共の利益」という副題をつけた。マンデヴィルが礼賛したような、商業や腐敗、奢侈を追求した株式保有者や官職保有者たち新しいエリートは、古い価値観の持ち主や、また別の新しい価値観を生み出そうとする人々から批判された。その批判の多くは、新しいエリートらの価値観が社会や国家における宗教や「徳法意識〔ヴァーチュー〕」を貶めるものであるとみなしていた。批判者たちの中にはシヴィック・ヒューマニストもいた。彼らは支配の正当性を、土地所有を背景に国防を担うことのできる「自由の擁護者」たちの「徳〔ヴァーチュー〕」に求めており、この徳が新たな価値観にとってかわられれば英国の国政は崩壊すると主張した。
 新しいエリートたちは徳に代わって「作法〔マナーズ〕」という価値観に依拠した。商業は情念を洗練させ、作法へと磨き上げるという説明が当時にはなされていた。〔このあたり、ポーコックの議論が前提とされていて本文がかなり説明不足な印象を受ける。〕また、別の一派は消費社会を肯定しつつも、「作法」を古い「徳」に代わる「徳目」として認知させねばならないと考えた。社会の繁栄についてビジョンが共有されていたとしても、利己心を悪徳と見なしつつ肯定するか、それはあくまでも否定するかという点で主張の違いはあった。この問題をより整合的な形で解決しようとするのが、次世代のスコットランド啓蒙主義のヒューマニストである。

 近代市民社会を成り立たせるためのインフラストラクチャーの一つに、ハーバーマスが提唱した「公共圏」がある。この公共圏自体の成立が18世紀イギリスにおける商業社会や消費社会の成立と軌を一にしていることに注目すべきである。18世紀イギリスでは「文化」の消費がはじまり、それを流通させるための文化市場が成立した。そして消費される文化を提供するための文化産業も次々に生まれた。この流れの中で、自然もまた文化として消費されるようになった。「風景式庭園」の造成や観光は顕示的消費となり、こういった行為の積み重ねがイギリス人の自然観や田園観を築いていった。
 無論18世紀に成立した公共圏がすべての階層に共有されていたわけではない。とはいえ、前工業社会における民衆〔≒モラル・エコノミーの体現者〕は、商業社会を謳歌した人々〔≒ポリティカル・エコノミーの体現者〕との間で文化的価値を完全に共有せずとも、彼らなりに新しい商業社会の恩恵は被っていたであろう。民衆、特に農民の多くが消費社会の発展によってどれほどの恩恵を被ったかについてはまだ評価が定まっていない。

 アダム・スミスの『国富論』が提起した問題のひとつ、つまり、圧倒的に多数の貧しい生産的労働者が少数の非生産的階層の奢侈を支えていながら、それでも全体として資本主義〔スミスは市民社会〔シヴィル・ソサエティ〕と呼んでいる〕における労働者の生活がほかの社会形態の下層民のそれよりも裕福なのはなぜか、という問題は、今の我々にも突きつけられている。18世紀におこなわれた奢侈批判は政局の腐敗への批判であったが、また一方で価値観の転換を巡る論争でもあったのである。

 〔コンセプトの説明と導入のための序文なので、これだけを読んでも説明不足の感があるのは致し方ない。個人的にはこの序章だけ読むと「顕示的消費」論を全体的に補強する論集であるような雰囲気がするのが気にかかる。顕示的消費論は今もそこまでメインストリームなのだろうか。
 たとえば日本近代史における大衆消費社会の形成については満薗勇『日本型大衆消費社会への胎動』という研究がある。ここでは、嗜好品や高級品の顕示的消費だけでなく、日用品や耐久消費財についての顧客の嗜好の多様化を受けて小売業や在来産業、流通機構がおこなった自己革新や宣伝戦略が日本における大衆消費社会を準備する上で大きな役割を果たしたことが指摘されている。〕




日本型大衆消費社会への胎動: 戦前期日本の通信販売と月賦販売日本型大衆消費社会への胎動: 戦前期日本の通信販売と月賦販売
(2014/02/18)
満薗 勇

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穂村弘『絶叫委員会』にほんとうは起きていること


絶叫委員会絶叫委員会
(2010/05)
穂村 弘

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詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること詩的思考のめざめ: 心と言葉にほんとうは起きていること
(2014/02/24)
阿部 公彦

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穂村『絶叫委員会』は最後の方で出てきた「偶然性による結果的ポエム」というフレーズが全てを持って行ってしまった。本を一冊使って宙ぶらりんのまま取り扱い続けてきた得体の知れぬ気持ち悪いけど心をざわざわと触っていくことばの働きの実例たちに、最後にまるっと名前をつけてしまう。戦略的だ。

目前にあるものに名前をつけたいと思ってことばを欲するその行為が詩への一歩だと言ったのは阿部公彦で、穂村はその実例を転がしたあげくにそれそのものに名前をつけて包摂してしまうという模範演技を見せてくれたのだった。

ただ、この二つの本は同じことを一見別のアプローチから言っているように見えるのだけれども、どちらかと言えば阿部は混沌から形式化へとうごめいてゆく流れの中に詩的なものの生成を読み取り、一方で穂村は定型・標準・形式からの偶然性による逸脱の瞬間に詩的なものが生成する事例を選好している、という違いはあるように思う。まあ両方の中に生成していて、どっちの方をクロースアップして説明しているかの違いだろう。
作品をつくるという方向性での詩作が前者であり、名言や箴言は後者に属するともおそらく言える。それはつまり、意識的になにかを作りあげていく行為の大半が偶然性を削ぎ落としていく作業であることを意味している。

レジェンダリー版ゴジラ見てきましたわ

まあ見に行きますよね。

ゴジラが人類を(結果的に)救う役回りにいるという点で平成ガメラとの類似を指摘する感想があってぼくもまあそういうところはあるかなと思うけども、平成ガメラは毎回ズタボロになってて、ヒーローがきた→悲壮→逆転のカタルシスが組まれてるのに比べてレジェゴジはそれすら超越して気怠げにやってきてやれやれ…という感じでムートーしばいて帰っていく。これがいい。

怪獣映画にはディザスタームービーとヒーロームービーの両方を受け入れる懐の広さがあって、ゴジラは時によってそれぞれを引き受け、ガメラは昭和も平成も基本的に後者をやってきた。

ディザスタームービーの文法では人間は与えられた所与の条件の中で奮闘してサブシステムとしてのドラマを形成して話を回すけれども、基本的に災害には勝てない。今回も人類はいろいろやってるけど状況を悪化させる以外のことはほとんどやっていないし(主人公最後に一個だけがんばったね)人類がいようがいなかろうがゴジラはムートーをしばきたおして帰って行っただろう。
ムートーを追って太平洋を黙々と移動するゴジラを米軍艦艇は取り巻いて見ているしかなく、最強の戦闘マシンであるところの空母ですら眼中に入らないかのように艦底を潜ってスルーされるというあの絵面がこの劇中における人類の立ち位置を雄弁に語っている。

つまりレジェゴジは人類の関われない枠組の中で災厄が災厄を片付けて帰って行くという役回りの配置になっていて、劇中の人類(と劇外の視聴者)が災厄の片方に救世主的役割を読み込む余地を用意してあるつくりにしてあるという意味で、日本の怪獣映画をたくさんたくさん見てきた人が満を持してつくったんだね、という感じがする。
よいものでした。

「パシフィック・リム」?
あれは情け容赦ない戦闘マシーンを愛でる映画ですがなにか。

プリオヴィルを観にいったんだ日記

ものすごく久しぶりにダンスを観にいった気がする。
観にいったのは7月24日から27日まで表参道のスパイラルホールでやっていたtime for us
ぼくが見に行ったのは25日の公演。

演者はファビアン・プリオヴィルと瀬山亜津咲のふたり。
このふたりはピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団に所属していたことがあって/していて、特に瀬山さんは先日無料公開されていた「Vollmond」にもでているので見たら「あっこの人か」と思う人も多いかもしれない。
僕はファビアン・プリオヴィルの「JailBreakMind」という作品を以前に見たことがあってこれがまた動きがキレッキレで非常にかっこいい作品だったので今回もこういうのを期待して観にいったんだけれども、結果的にはこういうのではなかった。

プリオヴィル/瀬山のお二人は私生活でもパートナーであるようで、今回の作品はふたりの「結びつきを考察する場」であり「個々の生活ではなく共に在る関係を想像する場」(パンフから)だったらしい。
ああうん親しい二人の間に成立する空間ってこうよねと思うところはあったけども、(勝手な)ぼくの期待に噛み合う方向性のものではなかったし、黙々と見て黙々と帰った。

表現者の人たちがライフステージの中でこういった演目をつくりたくなり、つくり、それを見て楽しむ人びとがいるということに今の自分は理解を示すことができるんだと気づいたのが我ながら一番面白かった。

バットシェバの「Sadeh21」をもう一度見たくなった。

冷たいお茶を飲まないと死んでしまう、夏

夏に飲むお茶は三つある。杜仲茶、水出しコーヒー、水出し紅茶。気が向いたらホットも飲む。三つじゃないけど細かいことを気にしてはいけない。このエントリは石版!夏は水出しのお茶を冷蔵庫に常備しておくとQOLが爆上がりするというエントリへの返歌である。

家にいる時間がやたらめったら長かった院生時代からお茶を入れることは好きで、気分転換といえばお茶を入れることだった。くつろぐとはお茶を飲んでいる状態のことだった。これはたぶん実家の習慣として夕食後にコーヒーを飲みながら1時間ぐらいぐったらべったらするタイムが制度化されていたせいで、僕ははじめは紅茶を、実家を離れる前の数年間は一緒にコーヒーを飲んでいた。一人暮らしをするようになってからは一人分をコーヒーメーカーで入れるのも大仰だろうということで、自然とハンドドリップをするようになった。電気ケトルが手に入ってからはお湯を沸かすのもへそで茶を沸かすように簡単になり、気が向けばあっという間にコーヒーが飲めるようになった。本を読んでいるのか気分転換をしているのかコーヒーを飲んでいるのかよくわからない時間を過ごしていたが、あれはあれでいいものだった。

夏に飲むお茶の話だ。僕は暑いのが苦手だ。暑がりなので暑いなーと思ったらすぐに冷たいものが飲みたい。暑いときこそ熱い飲み物をというのは理屈ではわかるけれども、ほっといても汗をかける人間なので自分は別にかまわないだろうと思う。
杜仲茶はでかい薬罐で2リットルぐらい一気につくり、ガラスポットに入れて冷蔵庫に突っ込んでおく。これでいつでも夏から瞬間的に逃げることができる。杜仲茶は昔太っていたときに肥満に効果があるかもしれないことを聞きつけた親が導入したもので、今は別に気にするほどのことでもないけれど習慣として飲み続けている。慣れれば癖もなくておいしい。杜仲茶は息をするように飲んでいる。

もう一つは水出しコーヒー。杜仲茶は刺激性がほとんどないので冷を取るために飲んでいるようなもので、水出しコーヒーがないと僕は人間になることができない。水出しコーヒーというものを知らなかった頃はでっかい氷をがらんがらん入れたボウルに直接コーヒーをいれて急冷する作り方をやっていた。今でも水出しを仕込み忘れたときにはこれでやる。こっちの方法は雑味が出なくてさっぱりしたアイスコーヒーになる。
水出しは細かいことを気にしてはいけない。一番簡単なのはなにがしかの容器になにがしかの分量のコーヒー粉をぶちこんで(ただし粉はアイスコーヒー用のものが望ましい)なにがしかの分量の水を投入して一晩冷蔵庫で寝かせるやり方だ。できあがりが濃かったら冷水か氷で薄めたらよいので全て目分量でかまわない。ただし、飲む前に一度まるっと漉さないと粉っぽくて飲めたもんではない。この漉す作業は結構時間が掛かるしめんどくさいので、下の写真みたいにお茶入れパックに適当な分量をいれて水出しコーヒーの素をつくるのもいい。ゴミ出しも簡単だ。これで暑さにだれてもいつでも人間の形を取り戻すことができる。なお、急冷式でつくる手間も煩わしいくらいに速やかに冷たいコーヒーが飲みたいときはインスタントコーヒーと牛乳と氷でカフェ・シェケラートをつくるとよい。作り方はグーグル先生がやさしく教えてくれる。

coffee.jpg


そしてもう一つが水出し紅茶だ。水出し紅茶は清涼感を手に入れるために最高だ。自分の中で鉄板なのは果物の香りがついたやつととミントティーの茶葉をだいたい半々ぐらいにしてお茶パックに入れてから携帯用の水筒に入れてしまう作り方。朝に水と氷をがんがら入れて出勤すれば、10時30分のおやつを食べる頃にはさっぱりいい香りの水出し紅茶ができている寸法だ。昔は本当に手当たり次第に適当なティーバッグでつくっていたけれども、水出し用じゃないと衛生的にあんまりよろしくないかも、みたいな話を聞いてからは一応水出し用と銘打たれているものを使うようにしている。がんがん飲むものに変なこだわりも要らないので、スーパーでよく売ってるTEA'sTEAのオレンジ&アールグレイとポンパドールのミントでいい。これだけで十分においしい。この組み合わせを口にすれば盛夏でも5秒ぐらいは夏を忘れることができる。

夏を忘れるための三種類のお茶を駆使したならば、あとは存分に夏を味わうためにビールを飲むことだけが残されている。
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Author:higegeschichte
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